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 毎月11日に、さまざまな「音の記憶」を書き残していきます。

 

 

執筆:ササマユウコ(音楽家・CONNECT/コネクト代表)

1964年東京生まれ。2011年以降、M.シェーファーのサウンドスケープ論を「耳の哲学」と捉え直し、内と外、音と言葉をつなげる活動を展開。学会発表のほか、哲学カフェ(弘前大学今田匡彦研究室、東京大学こまば祭)、座談会(下北沢本屋B&B、Solid&Liquid Machida等)、執筆、即興カフェ(調布森のテラス)等。
   


音の記憶「聾/聴の境界をきく」

〇動画はこちらのリンクからご覧いただけます

以下はFB専用ページからの転載です(www.facebook.com/deaf.coda.hearing)

 

 この記録は音を消してみた時に違う風景がたち現れます。まるで音が聞こえているように動く雫境さんですが、実際には「音」はふたりをつなぐメディア(媒体)ではありませんでした。しかしカメラ横にあったドラムセットはかなりの音量で振動していたので、ピアノの音が部屋の空気を揺らし、雫境さんの身体に「届いている」という実感はありました。その空気の「揺れ」を感じながら動いていたのかはわかりませんが、演奏する身体(指)と身体の動きが同期している場面が少なからずあることは非常に興味深いです。

 演奏中に私が何度もふり返っているのは、通常と違って「視覚」に頼っているからです。「伴奏」のように身体の動きに合わせて弾いているのではなく、雫境さんの放つ「雰囲気」や「気」、言葉や意識を越えた「何か」を感じ取ろうとしています。音楽家同士の即興セッションでやるような「アイコンタクト」は特に取っていません。そして最も大切なのは、ここでは「きこえる|きこえない」ということは全く問題では無かったということです。聾・聴がお互いの世界から一歩踏み出し、「間 あわい」となる「境界」の中でセッションをしていたように思います。

 今回のプロジェクトのテーマもまさにここにあります。聾|聴、音のある|音のない、それぞれが生きる世界に「踏み込む」のではなく、お互いの世界を尊重し「知る」ことを大事にしながら、さらにそこから一歩踏み出した「境界」に何が生まれるのかを探ります。私は音楽家ですが、残念ながら私の音は彼等の世界には届きません。しかしこの動画をみていると「演奏する身体」も音楽なのだとわかってきます。例えば「振動」や「画像」を自分の音楽の代替えに伝えたとしても、それは本質からは遠く、どこか「自己満足」に陥る危険性があります。同時に、月の満ち欠け、潮の満ち引き、体内のリズム、四季の巡りなど、聾/聴を越えた人間のリズム、「共通の音風景」が存在することは確かだと思っています。

第1回ミーティングとなったこの日は、ふたりの共通の友人であり、劇作家・舞台手話通訳の米内山陽子(CODA)の存在も大きかったです。矛盾しているようですが、非言語対話を通して「コトバ」の役割も見えてきます。「対話」の概念にはもともと「コトバ」が含まれている訳ですから、そこにズレが生じると「音のない言葉(ボディ・ランゲージ、パラ・ランゲージ、サイン・ランゲージ(手話)」も身体表現や音楽も、結局うまく伝わりません。「通訳者」の持つ「コトバ」のセンスや「間」が、いかに大切かもわかります。昨年からの個人的なテーマである「コトバとは何か」という問いにもあらためて立ち返る時間でした。幸い私はまだ「聾の世界」の言葉(手話)をほとんど知りません。非言語対話⇔言語対話というプロセスを辿る中で、自分が何を感じ発見するのかも楽しみにしています。

 この日、雫境さんが教えてくれた聾者の音楽映画『LISTEN』牧原監督の「音のない世界の’奥に’聾の世界がある」という言葉もとても印象的でした。その世界の奥に入ることは出来ませんが「知る」ことは可能だと思っています。(聴・ササマユウコ)

協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく〜言語・非言語対話の可能性」
メンバー:雫境|聾・Moement・身体 ササマユウコ|聴・Soundscape・音 米内山陽子|CODA・Signlanguage・言葉

助成:アートミーツケア学会青空委員会

企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネク


音の記憶⑥『戦争の音』

 16年前の9月11日。私は二週間後に出産を控えた臨月の妊婦だった。その日の朝、まだ目が覚める前の頭の中で、世界が「騒然としている音」を確かに聴いていた。何語なのかもわからない。おびただしい数の声、その叫びに近いやりとりが、尋常ではない勢いで世界を飛び交っている。その音が「うるさくて」目が覚めたのだ。しかし部屋の中はしんとしていた。
 8か月目までは普通に活動をしていたが、さすがに臨月に入るといわゆる「妊婦体型」となって容易には起き上がれない。ゆっくりと横向きから、ヨガと同じように片側に両手をつき、吐く呼吸に合わせてゆっくりと体を起こしていく。そこから一呼吸おいて立ち上がり、くり抜かれた壁の中に置いた小さな16インチ・テレビの主電源を入れた。テレビを持たない今の生活の前は、朝起きたら習慣的にテレビのスイッチを入れていたように思う。私はテレビの前に立ったまま、ぼんやりと立ち現れる小さな画面を見つめていた。
 最初に目に映った映像は、まさにWTCに飛行機が激突する瞬間だった。続いて、爆破による解体作業のようにビルが’見事に’崩れ落ちていく映像。そして砂煙の中を全力で逃げる街中の人たち、叫び声、現地アナウンサーの低くて悲痛な声・・だった。その時、自身も何か声を上げたかもしれない。現実とはにわかに信じられなかったが、さっきまで頭の中で聞いていた「音」の正体はこれだったのかと確信した。続けて、ペンタゴンにも飛行機が墜落したと伝えられた。ある朝突然に、テロという名の戦争は始まってしまった。あの日はいったいどんな気持ちで一日を過ごしただろう。その後に続く今日までの16年間の情報量があまりに多く、「大変な時代に子どもを産むことになった」と覚悟したこと以外、実はあまりよく覚えていない。
 高台にある築40年のマンションの最上階角部屋は、眺望だけは高層マンションのようだった。近くの消防署の隊員さんが「火の見やぐら」と称した通り、目の前は公園だったし窓の外の風景をさえぎるものは何もなかった。ただ、数百メートル先に当時はまだ「防衛庁」の通信用の無線鉄塔があった。おそらく臨月の妊婦がキャッチしたのは、その鉄塔に世界中から送られてくる強力で膨大な通信電波だったのだろう。非科学的だと笑われても構わない。耳の中には確かに「9.11の音の記憶」があるのだから。

  崩れ落ちたWTCの106階にはJazzライブも聴けるレストラン「Windows on the World」があった(9.11後に一時ネット上に流れていた、ビルから真っ直ぐに落ちていく紳士の写真はここのシェフだったと言われている)。20代の頃、初めてN.Y.を訪れた時に、今はブルックリンで素敵な日本食レストランを営む友人夫婦に連れていってもらった。時はバブル時代。世界一の経済大国となった日本企業が、ロックフェラーセンターを始めマンハッタンを「買い漁っていた」時代だった。アップタウンの高級アパートには多くの日本人(作曲家や芸能人も)が部屋を持ち、WTCにも商社マンや銀行員が多く働いていて、第二の東京のようだった。自分とまったく違う世界に住む企業人たちは自信に溢れ、「敗戦国」のリベンジを経済力で果たした高揚感に包まれているように見えた。しかしそこから間もなくバブルは弾け、ロックフェラーもアメリカの手に戻った。私が「世界の頂上」に上ったのは後にも先にもその一回だけだったが、WTCがマンハッタンの重要な経済的シンボルだったことは確かだ。
 2001年9月11日から二週間後の予定日を少し過ぎて、私は母親になった(しかも出産事故で死にかけた)。現代医療に助けられ一命は取り留めたものの、どこか「余生」のような第二の人生の始まりだったと思う。同時に、全てが「初体験」の育児に翻弄する日々の中で、正直9.11どころの騒ぎではなくなっていく。「たとえ世界が終ろうとも、私は腕の中の小さな生命を死なせるわけにはいかない」という想いしか無かったように思う。毎日が’待ったなし’の「
リアル」であり、明らかに「内と外の世界の分断期」でもあった。

 そのうち湾岸戦争が始まった。映像も記憶しているし悲観もしたが、それはあくまでも「外」の世界の出来事だった。個人的な未来像は、すくすくと育つ小さな生命とともにすこぶる楽観的で明るかった気がする。CD制作が続いたのでPC作業も多かったが、16年前は今のように一瞬でネットにつながる光回線ではなく(当然スマホはなく)、電話とFAX、PCも気長なダイヤル回線で対応していた。アドレスを入力すると電話のダイヤルが回るような音がして、続いて呼び出し音「ピ~、ガ~」が鳴り、どんなに急ぎの懸案であっても’のんびりと’回線がつながるのを待つしかなかったのである。当然、混んだ時間はつながらない。大きな画像ファイルは送れない。音声動画のやりとりは専門性が高すぎて論外であった。娘を抱っこしながら片手でメールの返信を打つ・・という状態も珍しくなかったが、夫が男女の双生児だったのでジェンダーレスな子育てが可能だったことは、まだ当時の世間の規範からは外れていたが、お互いのライフスタイルや性格には合っていたと思う。だから今でもあの「ピーガー音」を偶然耳にすると、都会のど真ん中で必死に子育てをしていた頃を懐かしく思い出す。間違いなく大変なことの方が多かったはずだが、不思議と幸福な記憶としてよみがえる。その傍らで防衛庁はいつの間にか防衛省となり、夜中に人知れずミサイルを運び入れる音が街中に静かに響くのを、子どもと添い寝しながらぼんやりと耳にするような時代になっていった。そして3.11が起き、私たち家族も時を同じくしてこの「火の見やぐら」を出ることとなった。

『世界の調律』(M.シェーファー 平凡社)の中にも「戦争の音」は’黙示録的な音’として登場する。戦闘機、ミサイル、爆撃、地雷、叫び声、、戦場のサウンドスケープがいかに人々の精神を消耗させるかは想像に難くない。最近よく「目」にする(東京では鳴らされたことがないので「耳」にはしていない)『アラート』という警報音もどこか黙示録的だ。人々の心に仮想敵国の存在と共に「恐怖心」を染み込ませ、非現実的な避難訓練を繰り返しながら「戦争の音」へと導く。まるでそれは「パブロフの犬」の実験そのものだ。とにかく少し冷静になって考えたい。犬のように反射してはならないはずだ。
 以下は、『世界の調律』(1986 平凡社ライブラリー)の一節である。今から40年以上前の、米ソ冷戦構造の時代(1976年)に出版された。ひとりの音楽家の「声」を世界はそう簡単には受け入れないが、時間を経た今読み返しても多くの発見や学びのある博物学的で学際的な「音の本」である。音と戦争は無関係ではないことを、音楽家こそ自覚しなければならないと思う。
さまざまな社会が知らず知らずのうちに、それら(黙示録的な音)
を無意識のうちにあこがれるようになることはありうるかもしれない。人間はこれまでもずっと、敵を恐ろしい音でやっつけようとしてきた。盾を響かせ太鼓を打ち鳴らした古代から、第二次世界大戦の広島と長崎の原子爆弾に至るまでの戦争の歴史を通じて、われわれは常に黙示録的な音を再現するための周到な試みを重ねてきたのである。」(第1章自然のサウンドスケープ「黙示録の音」より抜粋)。

 (2017.9.11 ササマユウコ)


音の記憶⑤「Sound of Silence~沈黙の音」

 8月は「1分間の黙祷」の季節である。6日の広島、9日の長崎、そして15日の終戦記念日。「黙祷」という「沈黙」を全国民が同じ時刻に共有する。もちろんこの「沈黙」が全てを包み込むわけではない。キッチンに流れる暮らしの音、街中では車やバスや電車の音、庭ではセミたちの賑やかな鳴き声が響き、仕事中の人もいるだろう。いつもの音風景の中に、それぞれの「1分間」、それぞれの祈りがある。身体の輪郭を残したまま内側に深く広がる「沈黙」を外側から見ることはできない。電車内でスマホをしている人も心の中では「黙祷」をしているのかもしれない。仕事の手を止め、あるいは立ち止まり、目を閉じて静かに手を合わせ、停止した身体の内側が「無」になった時にはじめて外側にも沈黙がたち現れる。どちらにしても「1分間の黙祷」は意外なほど長い。祈り続けることの重みを時間から実感する。
 自身のサウンド・エデュケーションのワークショップでは、まず参加者に「1分間」を体験してもらうことから始まる。目を閉じ、自分の内側に耳をすまし、自他の時間感覚や呼吸スパンの「違い」を認識し共有する。もともと個の身体や心は「それぞれの時間」に生きている。のんびりした人の1分間は長めだし、せっかちな人の1分間は40秒くらいだったりする。その人の「1分間」を知ることは、同時に自分が生きている時間を知ることでもある。

 ここには2つの尺度がある。偶然に場を共にした人たちの中で「自分の1分間」が長いのか短いのかという相対的な視点。もうひとつは、提示された砂時計が示す’正解’を基準とした絶対的な視点だ。しかしここで私は「ある仕掛け」を施し、「正しい時間」に揺さぶりをかける。いつもの時間を疑い、時間の伸縮や曖昧さに気づくことは、時間と密接な関係にある「音楽」とは何か、世界とは何かを考えるきっかけともなる。

 私たちの心臓は1分間で約60回から70回程度の脈を打つ。1秒は心臓の速さだ。時間が脈拍を基準に生まれたことは数字からも明らかだし、時計が発明される以前は脈拍で時間を測ることもあっただろう。音楽の速度記号(メトロノーム)は1分間(60秒)にその音符が何回拍を打つかを示す。基準となるAndanteは「歩くような速さで ♩=63~76」と記される。つまりその人の歩く速さは、その人の心臓の速さなのだ。「時間」という概念は、もともとが個体差のある「脈」を基準にしたとても曖昧なものだった。それを絶対視している現代人の感覚は考えてみれば不思議だ。
 脈拍60回を一区切り(1分)にした理由は天体のリズムと関係するのだろう。体内で刻まれるリズムを、太陽や月や星の運行(暦)と結びつけた最初の人の存在は、想像するだけでもワクワクする。「時間」とは内外のリズムの発見と発明から生まれたのだろう。一日は24時間、1440分、心臓は約86400回のビートを刻む。月の満ち欠けで1ヶ月、海の満ち引き、波のリズムは呼吸と連動し、花は12カ月(1年)が経つと再び咲き、人はひとつ年を取る。体内リズムは天体、すなわち「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」とつながっている。逆に言えば、すべての生きものの内側には「宇宙のリズム」が存在する。
 その感覚は人を孤独から救う。この小さな自分が、何かとてつもなく大きな「音のない音楽」に包まれ、共鳴・共振しているような感覚になる。耳をすまし/ひらき、深く深呼吸をすることそのものが「音楽」なのだと気づく。もともと「ムジカ・ムンダーナ」の概念は、現代人が考える歌や演奏といった「音を出す音楽」とは違う「調和 ハルモニア」の哲学だ。静寂の中で暮らした古の人は、星空を見上げながら沈黙の音をきく耳をもっていたに違いない。
 いわゆる現代の
「音を出す音楽」も、本来は体内や宇宙のリズムと密接な関係にあったはずだろう。それが20世紀のわずか100年間のテクノロジーの進化によって、宇宙と体内リズムと音楽が切り離されていく。「音楽」はヘッドフォン(耳)だけで聴くもの、世界中いつでもどこでも均質に再生される時間となっていった。世界は統一され均質化され、時間もグローバル化される。ゆったりとした時間が流れる文化圏は消え、本当は誰もが違う「脈拍=秒」単位で、自己と他者が強制的かつ機械的に同期されていく。それは生きものとしては非常に不自然で特殊な進化(変態)だと思う。その「息苦しい時間」の一端を機械的で揺らがないリズムを刻む、余白のない音楽が作り出していることは否定できない。「生まれてから死ぬまで」を淡々と刻む心臓には寿命がある。西洋文化では「沈黙」が否定的な意味に受け取られてきたのは、「脈が止まる=沈黙」が「死」を連想させるからだ。永遠に止まらない「不老不死」のリズムは「沈黙=死」を怖れるようにかき消していく。

 カナダの作曲家M.シェーファーがサウンドスケープ論を提唱した『世界の調律』(平凡社)の最終章で提示したのが、まさに「沈黙」だった。この思想が彼が影響を受けたJ.ケージの著書『サイレンス』や有名な『4’33』の系譜にあることは明らかだ。さらにその奥には禅やヨガに代表される東洋的な「瞑想」も存在する。その証にシェーファーはヨガをいち早く学校教育に取り入れ、「全身を耳にして」内と外のサウンドスケープを「きく」ことを提唱した。しかし西洋文化圏での「沈黙」は前述の通り「死」を連想する否定的な要素が強く、今も彼の提唱がすんなり受け入れられたとは言い難い。だからこそ「(沈黙は)西洋芸術の最も可能性を秘めた特質となった」とシェーファーは語る。画像をリンクしたサイモン&ガーファンクルの『Sound of Silence』の詞も、実はとても哲学的で暗い印象がある。「沈黙は癌のようにひろがる」とまで歌っている。しかし沈黙が義務づけられたフランスの修道院生活を追ったドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』がヒットし、3時間以上にわたる全編が思いのほか豊かなサウンドスケープに包まれていたことは記憶に新しい。「内なる声」で神と対話する生活から生まれる音風景は、そこに生命の活動がある限り沈黙することはない。矛盾するようだが「Silence」の音は豊かに響くのである。

 シェーファーが40年前に提唱した「積極的な沈黙の回復」も、今だから理解できることは多い。騒々しい外側の音に包まれているうちに、内側の音(生命)の存在すら忘れてしまいそうである。何より耳には絶えずイヤホンから音楽が注ぎ込まれている。ケージが無響室で気づいた内側の音は、自分が生きている証。それは耳ではなく全身できく生命の音だった。音の溢れた外の世界に「沈黙」を取り戻すことは不可能かもしれないが、両手で耳をふさいで自分の脈拍に耳をすますこと、内側に感じることはできる。ほんの「1分間」でいい。約60回=60秒の脈拍が確かに「宇宙の音楽」とつながっていることを今こそ意識したい。2017.8.11 ササマユウコ)

※画像は1964年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。この年はレイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』が、オノ・ヨーコが後のIMAGINEへとつながる自費版の『グレープフルーツ』が出版された年であり、筆者が生まれた年でもある。


音の記憶④『蓮の花のひらく音』

 今年も美しい蓮の季節が巡ってきた。そして今日2017年7月11日は東日本大震災から6年4か月め、さらにもうひとつ大事なことは、戦前の治安維持法(大正14年)にあたる共謀罪が施行される日ということ。これは今から94年前(大正12年)の関東大震災から、昭和戦前の軍国主義へと突入していく時代の空気ととてもよく似ている。もちろん当時の芸術家や生活人も、法が施行された時はおそらくまだ他人事だったと思う。それよりも自分の表現や夕飯のおかずに頭を悩ませるほうが先だったことだろう。ただしその後の歴史で何が起こったのか。「戦争反対」とつぶやくだけで密告され、逮捕され、拷問のはてに殺される時代がやってきた。そのことは今一度知らなければならない。それは表現の自由、内心の自由、自分らしく生きることを諦めないためだ。
 2011年の夏、『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(M.シェーファー、今田匡彦著 春秋社)の課題「花のひらく音をきく」に惹かれ、戦前の朝日新聞紙上で繰り広げられた『蓮の音論争』について調べていた。永田町にある国会図書館には、窓の外から国会前の原発反対デモのすさまじいシュプレヒコールが響き渡っていた。
 手にしていた戦前の新聞記事は、ちょうど「蓮の音はしない」と断定された昭和11年のものだった。この年は歴史を振り返った時にターニングポイントとなる。2月にクーデーター未遂事件を起こし処刑された、多くの地方出身・青年将校たちの名前が列挙され(226事件)、ガタガタと音を立てるように軍国主義に突入していく国の姿があった。2011年の永田町に渦巻く怒号が戦前の戒厳令と重なって、時間を遡っているような不思議な感覚になった。驚くのは、この昭和11年までは植物学者も含め当たり前に「ある」と思われていた、または「きいた」人がいた「蓮の音」が、「科学」という言葉を前に見事に消えてしまったことだった。風流が軍国時代にそぐわないと忌み嫌われ始める一方、「国民歌謡」の放送が始まり、東京音楽学校には邦楽科が設立される。プロ野球は当たり前に開催されていたし、日劇もあった。そして1940年に幻となった「東京オリンピック」の開催地が東京に決まり、今の国会議事堂が出来たのもこの年だ。秋田では豪雨でダムが決壊し400名近い人が犠牲となっている。安倍定事件も起きている。この年にひっそりと「蓮の音」が消えたことは、おそらく誰も気づいていない。その後の戦時中、上野不忍池は食糧難から田んぼに埋め立てられ、次に蓮の花を咲かせるのは昭和40年代に入ってからだ。しかしこの国の人たちの耳に「蓮の音」が戻ることはなかった。
 M.シェーファー/今田がリトル・サウンド・エデュケーションの中で「花(蓮)のひらく音をきく」と提示したのは、そこに「芸術とは何か」の真髄があったからに他ならない。たとえば自分以外の誰もが「科学」を掲げて「音はしない」と言っても、「ある」と思えばあるのである。それが「内心の自由」だ。しかし「カミカゼ」を信じて戦争に突入したことも、実はこの発想と大差ない。だからこそ戦後、大賀博士は執拗に「蓮の音はしない」とあちこちで記している。それは「迷信を信じやすい」この国が起こした戦争の過ちを反省した言葉なのだ。
 私が毎年この記事を掲載するのは、特に若い皆さんにひとりでも史実を知ってもらいたいこともあるし、自分のためでもある。人は日々の暮らしの中であきれるほど多くのことを忘れてしまう。しかも世界はひとつではないのである。今日も九州地方は豪雨で大変な被害に遭われている。地震も起きた。心を痛めながらも夏休みの計画に心を躍らせたり、糠漬けのつかり具合に一喜一憂もする。そうやって、ひとりひとりの暮らしの中でいつの間にか悲惨な時代がやってくるのだろう。
 2011年の夏、国会図書館の中できいた永田町に渦巻いていた怒号。決して忘れてはならない音の記憶である。同時に「蓮の音」に芸術の希望を見出し、弘前の今田研究室に向かった晩秋のことも一生忘れないだろう。
 ●昨年の関連記事はこちらから→ (ササマユウコ記 2017年7月11日)


音の記憶③「ポリリズム」

 まだ豆粒のように小さな胎児だった頃から、私たちの心臓はその生命が終わるまでずっとリズムを刻んでいる。忘れがちだが、この世で誰ひとり同じ心臓を持たないのだから、体内リズムも人それぞれ違う。もしかしたら地球のどこかで、自分の心臓と同日同時刻から一秒違わず同じリズムを刻んでいる心臓が奇跡のようにあるのかもしれない。しかしそのリズムに出会うことは火星に生物を見つけるよりも困難だ。呼吸に寄り添う波のリズムも、波打ち際に立っていると大波小波が押し寄せては引いていくポリリズムだと気づく。

 そのポリリズムの世界が強引にひとつのパルスに押し込められ続け、いよいよ歪が出始めたのが現代だ。インターネットで時差の概念が消え、EUでシェスタが消え、東京では2分の到着の遅れに車掌が謝り続け、決して狂わないデジタル時計が暮らしを規範する。時間を描く線が消え、刻む点だけになる。砂時計のように曖昧な時間が消えていく。10年前に流行したPerfumeの「ポリリズム」は、曲中のリズムの変則性や、文字通り複数のリズムが絡み合う独特のグルーヴ感の中に、喪失されるポリリズムの世界を無意識に渇望したのかもしれない(テクノと生声の間(あわい)にある歌声の魅力もあったとは思うが)。
 例えば自分を振り返った時、左手は8分音符で4拍子、右手は4分で3連符のような西洋音楽のポリリズムに出会ったのは、ピアノ教育を通した小学生の中頃だったと思う。先に楽譜(視覚)があったので、それを見ながら手の左と右で同じ泊数の違うリズムを何度も何度も繰り返し、体内にポリリズムを染み込ませていった。考えてみれば身体を左右に分け、「ひとりで」ポリリズムをつくるピアニストとは何とも奇妙で孤独な生命体ではないだろうか。
 そのせいとは言えないが、私は例えば駅にある規則正しい階段を降りることがどうにも苦手である。同じ幅、同じ高さ、ひたすら続くその単調な規則性に途中から身体の何かが耐えられなくなって、リズムを変えたくなる。反対に古い神社仏閣にあるような手仕事の変則的な階段や、森の中で樹の根の有機的で不規則なリズムの段差はまったく苦にならない。ラッシュ時に駅の階段から転げ落ちる人を何度か目撃してしまったトラウマだろうか。その脇を軍隊行進のように通り過ぎていく冷たい足音の記憶もある。考えてみれば階段だけではない。ラジオ体操やカラオケ、揺らがない大きなリズムに合わせて「全員で」歌ったり身体を動かすのが心身ともに苦手である。「怖い」と紙一重だと思う。

 人生の中でいちばん印象に残っているポリリズムと言えば、妊娠8か月の頃に病院で聴かされた「胎児(娘)の心音」である。ベッドの枕元にL/Rの小さなスピーカーが付いていて、お腹にマイクを当てると予想以上に早い「トコトコトコトコ」といった可愛らしい小さな心音と、それに比べて低くゆったりとした自分の心音がポリリズムとなって聞こえてきた。それは「音楽」だった。自分の体内でふたつの心臓がポリリズムを奏でている。その状況は非常に面白かった。だから娘が生まれてからも時折、おもちゃの聴診器で心音を聴いてみた。あの健気な小さなリズムを一度でも耳にしたら、親は本能的に「この小さなリズムを守らねば」と思う。最近はマタニティマークをめぐる信じがたいニュースも話題になったが、あのマークは妊婦さんに特権を与えるものではなく、お腹の中で刻まれている小さなリズムを守るためのマークなのだ。「見えない」「きこえない」ものに想像力を働かせることは、この世界がポリリズムであることに気づくことと等しい。

 かつてアルバイトをしていた劇場で、イスラエルのダンスカンパニーのワークショップを見学させてもらったことがある。20年ほど前だろうか。まだ国内はコンテンポラリーダンスの黎明期で、生活の所作の中にある身体リズムをダンスに取り入れる動きが出始めた頃だった。その中で印象的なシーンがある。講師のダンサーが8拍子の音楽を流して、「これに合わせて7拍子で踊って。こちらのあなたは5拍子で」などと指示をだし、身体でポリリズムの風景をつくろうとすると日本人のダンサーはたいがい困惑してしまう。ちょうど音楽の世界でもシルクロードを遡るようにインドや中近東の音楽が身近になり始めた頃だ。インド古典のおおらかな二拍子の曲が、実は三桁の分母を持つ変拍子と複雑なポリリズムを内包しているものがあると知って驚いたこともある。何より、複雑に編み込まれたポリリズムがシンプルでスケール感のある’うねり’を生み出すことがとても興味深い。これは頭で考え、視覚で習得するリズムではない。身体に染み込ませるリズムである。
 今ではインターネットを通じて世界中のリズムを聴くことが可能だし、在日外国人二世や留学生が紹介する異国のリズムに触れる機会も当時と比べて格段に増えた。『LISTEN』のような聾者の音楽にも出会える。「日本語は4拍子」と捉える世界もあるが(確かに和歌の57577を読み上げるような「様式」の中には4拍子があるが)、例えば津軽弁や江戸弁などの方言に4拍子を感じたことはない。もっと個人の呼吸スパン、その人固有の体内リズムを感じる。反対に学校で習う音楽のほとんどが4拍子であることも興味深い。
 パソコンソフトや楽譜を使って、ポリリズムを作ることはさほど難しいことではない。リズムを数学的に捉え、聴覚よりも視覚化し、パターン化するのである。それは例えば森の中を歩いて葉や花のかたちに秩序を見出すような世界の捉え方である。むしろ本当に難しいのは、自分の「暮らす身体」を通してリズムを奏で、他者のリズムと共存する「生のポリリズム」である。リズムの中にも「相性」があって、どうにも心地良いグルーヴ感が生まれにくい組み合わせはある。しかし数学と同じで、公倍数として「一致」する瞬間は必ず巡ってくる。その瞬間を信じて、自分のリズムを頑なにキープする(守る)だけではなく、他者のリズムを受け入れ、揺らぐ(ずれる)ことも時には必要だ。最終的に大きくてシンプルな’うねり’が立ち現れるまで「繰り返す」ことが大事なのである。他者のリズムを「違和感」ではなく「差異」として受けとめられるような身体を手に入れたい。世界が単調なパルスに陥らないように常に耳を研ぎ澄ませていないといけない。多様性(ズレ)のあるポリリズムは、不揃いだが身体リズムと呼応する階段のように、有機的で心地よい余白のある世界を生む。
 映像は、この国の先住民族であるアイヌの民謡である。4人の独特な声が響き合い、時にポリリズムを刻みながら心地の良い揺らぎを生みだしていく。複雑なポリリズムがシンプルなうねりを生むのと同時に、ひとりひとりのシンプルなリズム、円環となる時間の組み合わせが複雑なポリリズムを生む。胎児の頃の耳の記憶が刺激されるような、ここ数年よく聴いている一曲。(2017.6.11 ササマユウコ)


音の記憶②「オルゴール」

 これまで特別に考えたことはなかったが、実は「オルゴール」が人生の原点にあると最近意識するようになった。

 パリのモンマルトルにあるような大きな手回しオルガンや古い自動ピアノ、スイスのリュージュ社のシンギング・バード等にも得も言われぬ魅力を感じるが、個人的にはアナログのネジ巻式か、機械に直接小さなハンドルを付けただけの手回し式、どちらにしても内外ともにシンプルで手の中に納まる手動のオルゴールが好きだ。

 多くの人がそうであるように、オルゴールとの最初の出会いは幼少期だった。もしかしたら赤ん坊の頃にも玩具等で「音」には出会っていたかもしれない。しかし’音楽装置’としての存在を認識したのはピアノの出会いと同じ、3歳の頃だった。それは父の転勤で幼少期を過ごした函館の家にあったもので、幾何学模様が彫られた黒い小さな宝石箱だった。右側面に幼い子どもの手には少し堅めの金属製の小さなネジが付いていた。そのネジを回すと、「ギギギギ、ギギギギ」と少し抵抗感のある音がする。もうこれ以上は巻けないというところで手を離すと、どこかもの哀しいメロディが流れてくる。それはロシア民謡の『黒い瞳』だった。当時は気づくはずもないが、赤レンガのペチカ(ロシア式暖房)のある和洋折衷の家にはロシア民謡がよく似合う。ここで半年間は雪に埋もれ、時おり黒い箱を手に抱えてはネジを「ギギギギギ」と回す。函館は今はあまり雪が降らないと聞くが、半世紀前は幼い子どもの胸の高さほどの雪が本当によく降った。ちょうど妹が生まれた頃で、長女は放っておかれることが増えたせいか、オルゴールのネジを回すのは暇つぶしと孤独を癒す時間でもあったと思う。

 指先に軽い痛みを感じるほど堅いネジだった。まだ指の力が無かっただけかもしれない。そうまでして聞きたかったのはロシア民謡そのものではなく、箱の内側からきこえる「ギギギギギ」の音だったと思う。あとは「ネジを巻く」というどこか非日常的な行為も面白かった。流れる音楽とともに回転するネジは、段々とゆっくりになり眠りに落ちるように曲の途中でも止まってしまう、音楽が始まる場所も終わる場所も毎回違う、その有機的な感じにも惹かれていた。最後の一音の櫛歯が「ピン」と弾かれて終わるのか、その手前で終わるのかもワクワクした。曲もフルコーラスではなく最初のワンフレーズを何度も繰り返したので、まるでミニマル・ミュージックのようだった(もちろん知らなかったが)。それに加えて『黒い瞳』の半音階で始まる少し大人びた旋律が、当時流行していた『黒猫のタンゴ』にも似た異国情緒があって好みだった。ここは記憶がおぼろげなのだが、音の鳴る「仕組み」も見えるタイプだったと思う(もしくは箱の中のフェルトを外すと見えたのかもしれない)。どちらにしてもオルゴールは、聴覚、触覚、視覚を刺激する魅力的な「音楽装置」であることを再認識する。

 写真のオルゴールは10年ほど前に手に入れたもので、普段は仕事机の上にある。音には直接関係ないが、占いの水晶のようにずっしりと重たい硝子玉が載っている(最初からボンドが剥がれていて、本当にただ載っている)。硝子の中にはそれぞれ回転木馬と観覧車が刻まれている。裏底にあるダイヤル式のネジを回すと音楽が始まって硝子玉も回り始める。ちなみにネジは軽めであまり好みではない。予想外だったのは台座の中に小さなLEDライトが仕込まれていて、硝子玉が回りながら虹色に変化することだ。玉を手に取ると台座の中の虹の仕掛けは丸見えである。実はどこかの閉店セールで「3個まとめて1000円」の放出品を、放っておけずに引き取ったものである。ひとつは親戚の子にあげて、もうひとつもあげる予定の人がいたが「いらない」と断られた気がする。すっかり家に馴染んだ今は、欲しいと言われてもこちらが断るだろうけれど。
 再生される音楽は、観覧車がオルゴールの定番『It's A Small World』、回転木馬が『キヤルーゼル・ワルツ(原文ママ)』という、旋律は聞き覚えがあるが出どころ不明の曲だ。おそらく映画音楽だろうとは思っている。ちなみに硝子玉が重すぎて台座の回転に支障をきたし音がひび割れている。今ではLEDも切れそうで、ほんのり「赤玉」になるくらいだ。思い返せば「オルゴールとして」完璧に作動した期間は虹の出現のように儚かった。もしかしたら展示品だったのかもしれない。重厚な外側のつくりに反して、内側の機械は安物の音がする。
 しかし硝子玉に時おり日が当たると「希望」のように美しい光を放つ。その音楽的な佇まいが気に入っている。何より2011年の大震災でも無事だった我が家の貴重な硝子品のひとつだから、その強運も含め大切にしたいと思う。きっといつかは音も鳴らなくなるだろう。音を出さずに静かに回る硝子玉は、「記憶の音」を再生する装置に変身するだろう。回転木馬も観覧車も円環運動だ。その回転を見ながら私が思い出すのはロシア民謡なのかもしれない。そういえば、あの宝石箱のオルゴールはどこへ行ってしまったのだろう?引っ越しを繰り返す中で、いつの間にか消えてしまった。(2017.5.11 ササマユウコ)


音の記憶①ダムタイプ『OR』の音(1997@青山スパイラルホール)

 あの時は、生まれて初めて「音に殺される」と思った。

 ステージから目を逸らし、耳を塞いで抵抗したが、暗がりの床に座って全身で浴びる破壊的な重低音に、遂には生命が悲鳴を上げた。会場入り口に「途中退場可」の旨の貼り紙があったことは確認していたので、中央に座ってしまったことも、記録の撮影が入っていたことも構わず、私は立ち上がってその音から逃げ出していた。音に背を向けて、全力で逃げた。
 本来は当たり前だと思うのだが、ここでのアーティストと観客は’フェアな関係’だった。彼等の「表現の自由」と、そこから「逃げる自由」が、互いに保障されていたのは救いだった。しかし考えてみると、例えば音楽ホールでクラシックの演奏途中に、その音から「逃げる」ことが許されている場は少ない。演奏者への敬意は当然払うべきだが、これは何とも「アンフェアな関係」ではないだろうか。その一方で、自分が音を出す側にまわると、途端にその意識が薄らいでしまう。それどころか当たり前のように観客の身体と時間を拘束し、時には静寂を要求してしまうのはなぜだろう。
 すでに世界的な評価を得ていたダムタイプのコンサート『OR』の音だった。1995年に中心メンバーの一人だった古橋悌二をエイズで失った後、彼等はカンパニーとしての転機を迎えていた。私が逃げ出したのは、ステージ上の大きなスピーカーの電源を入れたまま、そのプラグを抜き差しするシーンだった(スタジオ・ミュージシャンなら、その音が’ご法度’であると知っている)。音質や音量の嗜好の問題、光の作用もあったとは思うが、それ以上にその音を淡々と出し続けるパフォーマーの無機質な存在感、その音の前に自分が100%受け身の状態に置かれるという「関係性」に耐えられなくなった。

 それは大げさではなく「音で殴られる」ような感覚だった。明らかに暴力だったと思う。ところがもっとショックだったのは、体育座りで微動だにせず、その暴力を受け続けている人たちがほとんどだったということだ。あの『S/N』の「ダムタイプ」の作品に背を向けることは容易ではない。この会場を「逃げ出す」ということは世界的なアートを理解しない自分を認めることになる。そこへの葛藤があったかもしれないし、無かったかもしれない。

 このコンサートに誘ってくれたダンサーの友人も、ほどなく会場を後にした。私を気遣ってではなく、彼女自身の身体が限界を越えたからだと言った。作品を全て観ていないので、私に内容を批評する資格はない。唯一言えることは、「暴力」とは何かを、あの音を通して身を持って体験できた貴重なコンサートだったということだ。
 音を「きく」のは耳だけではなく、全身であり、この生命である。アーティストと観客の、その間にある「関係性」の’在りよう’こそが音の本質を決める。だから’心地よい’と感じる重低音もあることは誤解のないように記しておきたい。
 物理的エネルギーとしての音の「力」。それを手にした側が一方的に「強者」となるような場の関係性には、常に危うさが潜んでいる。もちろんその音が、音楽となって誰かの生命を癒し救うこともある。その一方でシェーファーがサウンドスケープ論で示唆したように、音は自他の耳だけでなく、時には心も傷つけることは肝に銘じていたい。音の扱い方を今いちど問うことから、21世紀に相応しい’新しいコンサートのかたち’が生まれる可能性もある。特に社会にひらいた参加型コンサートやコミュニティ・ミュージックを志向するアーティストは、発展が著しい「音楽療法」の分野から学ぶべきこともあると思う。音のエネルギーを扱う際は、自身の表現欲求を満たすだけでなく、常に「想定外」を想像する能力が要求される時代となった。自戒を込めて、肝に銘じたい。

追記:「OR」から20年の月日が経つ。このコンサートには参加していないが、同じくダムタイプの主要メンバーだった美術家・小山田徹氏は、現在小さな焚き火を囲む「ちび火」プロジェクトやオーガニックカフェを展開していることが興味深い。「大きな火は、全体主義的な高揚感があって危険だから、小さな火を囲むのがいい」という彼の考えも記しておきたい。「芸術の力」を身を持って知る人の、内側から出た言葉である。 (2017.4.11 ササマユウコ)

●当時の「OR」の批評で、最も腑に落ちたのが熊倉敬聡氏の文章である。ちなみに、記録映像には問題のシーンは収録されていない。


音の記憶「聾/聴の境界をきく」

〇動画はこちらのリンクからご覧いただけます

以下はFB専用ページからの転載です(www.facebook.com/deaf.coda.hearing)

 

 この記録は音を消してみた時に違う風景がたち現れます。まるで音が聞こえているように動く雫境さんですが、実際には「音」はふたりをつなぐメディア(媒体)ではありませんでした。しかしカメラ横にあったドラムセットはかなりの音量で振動していたので、ピアノの音が部屋の空気を揺らし、雫境さんの身体に「届いている」という実感はありました。その空気の「揺れ」を感じながら動いていたのかはわかりませんが、演奏する身体(指)と身体の動きが同期している場面が少なからずあることは非常に興味深いです。

 演奏中に私が何度もふり返っているのは、通常と違って「視覚」に頼っているからです。「伴奏」のように身体の動きに合わせて弾いているのではなく、雫境さんの放つ「雰囲気」や「気」、言葉や意識を越えた「何か」を感じ取ろうとしています。音楽家同士の即興セッションでやるような「アイコンタクト」は特に取っていません。そして最も大切なのは、ここでは「きこえる|きこえない」ということは全く問題では無かったということです。聾・聴がお互いの世界から一歩踏み出し、「間 あわい」となる「境界」の中でセッションをしていたように思います。

 今回のプロジェクトのテーマもまさにここにあります。聾|聴、音のある|音のない、それぞれが生きる世界に「踏み込む」のではなく、お互いの世界を尊重し「知る」ことを大事にしながら、さらにそこから一歩踏み出した「境界」に何が生まれるのかを探ります。私は音楽家ですが、残念ながら私の音は彼等の世界には届きません。しかしこの動画をみていると「演奏する身体」も音楽なのだとわかってきます。例えば「振動」や「画像」を自分の音楽の代替えに伝えたとしても、それは本質からは遠く、どこか「自己満足」に陥る危険性があります。同時に、月の満ち欠け、潮の満ち引き、体内のリズム、四季の巡りなど、聾/聴を越えた人間のリズム、「共通の音風景」が存在することは確かだと思っています。

第1回ミーティングとなったこの日は、ふたりの共通の友人であり、劇作家・舞台手話通訳の米内山陽子(CODA)の存在も大きかったです。矛盾しているようですが、非言語対話を通して「コトバ」の役割も見えてきます。「対話」の概念にはもともと「コトバ」が含まれている訳ですから、そこにズレが生じると「音のない言葉(ボディ・ランゲージ、パラ・ランゲージ、サイン・ランゲージ(手話)」も身体表現や音楽も、結局うまく伝わりません。「通訳者」の持つ「コトバ」のセンスや「間」が、いかに大切かもわかります。昨年からの個人的なテーマである「コトバとは何か」という問いにもあらためて立ち返る時間でした。幸い私はまだ「聾の世界」の言葉(手話)をほとんど知りません。非言語対話⇔言語対話というプロセスを辿る中で、自分が何を感じ発見するのかも楽しみにしています。

 この日、雫境さんが教えてくれた聾者の音楽映画『LISTEN』牧原監督の「音のない世界の’奥に’聾の世界がある」という言葉もとても印象的でした。その世界の奥に入ることは出来ませんが「知る」ことは可能だと思っています。(聴・ササマユウコ)

協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく〜言語・非言語対話の可能性」
メンバー:雫境|聾・Moement・身体 ササマユウコ|聴・Soundscape・音 米内山陽子|CODA・Signlanguage・言葉

助成:アートミーツケア学会青空委員会

企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネク


音の記憶⑥『戦争の音』

 16年前の9月11日。私は二週間後に出産を控えた臨月の妊婦だった。その日の朝、まだ目が覚める前の頭の中で、世界が「騒然としている音」を確かに聴いていた。何語なのかもわからない。おびただしい数の声、その叫びに近いやりとりが、尋常ではない勢いで世界を飛び交っている。その音が「うるさくて」目が覚めたのだ。しかし部屋の中はしんとしていた。
 8か月目までは普通に活動をしていたが、さすがに臨月に入るといわゆる「妊婦体型」となって容易には起き上がれない。ゆっくりと横向きから、ヨガと同じように片側に両手をつき、吐く呼吸に合わせてゆっくりと体を起こしていく。そこから一呼吸おいて立ち上がり、くり抜かれた壁の中に置いた小さな16インチ・テレビの主電源を入れた。テレビを持たない今の生活の前は、朝起きたら習慣的にテレビのスイッチを入れていたように思う。私はテレビの前に立ったまま、ぼんやりと立ち現れる小さな画面を見つめていた。
 最初に目に映った映像は、まさにWTCに飛行機が激突する瞬間だった。続いて、爆破による解体作業のようにビルが’見事に’崩れ落ちていく映像。そして砂煙の中を全力で逃げる街中の人たち、叫び声、現地アナウンサーの低くて悲痛な声・・だった。その時、自身も何か声を上げたかもしれない。現実とはにわかに信じられなかったが、さっきまで頭の中で聞いていた「音」の正体はこれだったのかと確信した。続けて、ペンタゴンにも飛行機が墜落したと伝えられた。ある朝突然に、テロという名の戦争は始まってしまった。あの日はいったいどんな気持ちで一日を過ごしただろう。その後に続く今日までの16年間の情報量があまりに多く、「大変な時代に子どもを産むことになった」と覚悟したこと以外、実はあまりよく覚えていない。
 高台にある築40年のマンションの最上階角部屋は、眺望だけは高層マンションのようだった。近くの消防署の隊員さんが「火の見やぐら」と称した通り、目の前は公園だったし窓の外の風景をさえぎるものは何もなかった。ただ、数百メートル先に当時はまだ「防衛庁」の通信用の無線鉄塔があった。おそらく臨月の妊婦がキャッチしたのは、その鉄塔に世界中から送られてくる強力で膨大な通信電波だったのだろう。非科学的だと笑われても構わない。耳の中には確かに「9.11の音の記憶」があるのだから。

  崩れ落ちたWTCの106階にはJazzライブも聴けるレストラン「Windows on the World」があった(9.11後に一時ネット上に流れていた、ビルから真っ直ぐに落ちていく紳士の写真はここのシェフだったと言われている)。20代の頃、初めてN.Y.を訪れた時に、今はブルックリンで素敵な日本食レストランを営む友人夫婦に連れていってもらった。時はバブル時代。世界一の経済大国となった日本企業が、ロックフェラーセンターを始めマンハッタンを「買い漁っていた」時代だった。アップタウンの高級アパートには多くの日本人(作曲家や芸能人も)が部屋を持ち、WTCにも商社マンや銀行員が多く働いていて、第二の東京のようだった。自分とまったく違う世界に住む企業人たちは自信に溢れ、「敗戦国」のリベンジを経済力で果たした高揚感に包まれているように見えた。しかしそこから間もなくバブルは弾け、ロックフェラーもアメリカの手に戻った。私が「世界の頂上」に上ったのは後にも先にもその一回だけだったが、WTCがマンハッタンの重要な経済的シンボルだったことは確かだ。
 2001年9月11日から二週間後の予定日を少し過ぎて、私は母親になった(しかも出産事故で死にかけた)。現代医療に助けられ一命は取り留めたものの、どこか「余生」のような第二の人生の始まりだったと思う。同時に、全てが「初体験」の育児に翻弄する日々の中で、正直9.11どころの騒ぎではなくなっていく。「たとえ世界が終ろうとも、私は腕の中の小さな生命を死なせるわけにはいかない」という想いしか無かったように思う。毎日が’待ったなし’の「
リアル」であり、明らかに「内と外の世界の分断期」でもあった。

 そのうち湾岸戦争が始まった。映像も記憶しているし悲観もしたが、それはあくまでも「外」の世界の出来事だった。個人的な未来像は、すくすくと育つ小さな生命とともにすこぶる楽観的で明るかった気がする。CD制作が続いたのでPC作業も多かったが、16年前は今のように一瞬でネットにつながる光回線ではなく(当然スマホはなく)、電話とFAX、PCも気長なダイヤル回線で対応していた。アドレスを入力すると電話のダイヤルが回るような音がして、続いて呼び出し音「ピ~、ガ~」が鳴り、どんなに急ぎの懸案であっても’のんびりと’回線がつながるのを待つしかなかったのである。当然、混んだ時間はつながらない。大きな画像ファイルは送れない。音声動画のやりとりは専門性が高すぎて論外であった。娘を抱っこしながら片手でメールの返信を打つ・・という状態も珍しくなかったが、夫が男女の双生児だったのでジェンダーレスな子育てが可能だったことは、まだ当時の世間の規範からは外れていたが、お互いのライフスタイルや性格には合っていたと思う。だから今でもあの「ピーガー音」を偶然耳にすると、都会のど真ん中で必死に子育てをしていた頃を懐かしく思い出す。間違いなく大変なことの方が多かったはずだが、不思議と幸福な記憶としてよみがえる。その傍らで防衛庁はいつの間にか防衛省となり、夜中に人知れずミサイルを運び入れる音が街中に静かに響くのを、子どもと添い寝しながらぼんやりと耳にするような時代になっていった。そして3.11が起き、私たち家族も時を同じくしてこの「火の見やぐら」を出ることとなった。

『世界の調律』(M.シェーファー 平凡社)の中にも「戦争の音」は’黙示録的な音’として登場する。戦闘機、ミサイル、爆撃、地雷、叫び声、、戦場のサウンドスケープがいかに人々の精神を消耗させるかは想像に難くない。最近よく「目」にする(東京では鳴らされたことがないので「耳」にはしていない)『アラート』という警報音もどこか黙示録的だ。人々の心に仮想敵国の存在と共に「恐怖心」を染み込ませ、非現実的な避難訓練を繰り返しながら「戦争の音」へと導く。まるでそれは「パブロフの犬」の実験そのものだ。とにかく少し冷静になって考えたい。犬のように反射してはならないはずだ。
 以下は、『世界の調律』(1986 平凡社ライブラリー)の一節である。今から40年以上前の、米ソ冷戦構造の時代(1976年)に出版された。ひとりの音楽家の「声」を世界はそう簡単には受け入れないが、時間を経た今読み返しても多くの発見や学びのある博物学的で学際的な「音の本」である。音と戦争は無関係ではないことを、音楽家こそ自覚しなければならないと思う。
さまざまな社会が知らず知らずのうちに、それら(黙示録的な音)
を無意識のうちにあこがれるようになることはありうるかもしれない。人間はこれまでもずっと、敵を恐ろしい音でやっつけようとしてきた。盾を響かせ太鼓を打ち鳴らした古代から、第二次世界大戦の広島と長崎の原子爆弾に至るまでの戦争の歴史を通じて、われわれは常に黙示録的な音を再現するための周到な試みを重ねてきたのである。」(第1章自然のサウンドスケープ「黙示録の音」より抜粋)。

 (2017.9.11 ササマユウコ)


音の記憶⑤「Sound of Silence~沈黙の音」

 8月は「1分間の黙祷」の季節である。6日の広島、9日の長崎、そして15日の終戦記念日。「黙祷」という「沈黙」を全国民が同じ時刻に共有する。もちろんこの「沈黙」が全てを包み込むわけではない。キッチンに流れる暮らしの音、街中では車やバスや電車の音、庭ではセミたちの賑やかな鳴き声が響き、仕事中の人もいるだろう。いつもの音風景の中に、それぞれの「1分間」、それぞれの祈りがある。身体の輪郭を残したまま内側に深く広がる「沈黙」を外側から見ることはできない。電車内でスマホをしている人も心の中では「黙祷」をしているのかもしれない。仕事の手を止め、あるいは立ち止まり、目を閉じて静かに手を合わせ、停止した身体の内側が「無」になった時にはじめて外側にも沈黙がたち現れる。どちらにしても「1分間の黙祷」は意外なほど長い。祈り続けることの重みを時間から実感する。
 自身のサウンド・エデュケーションのワークショップでは、まず参加者に「1分間」を体験してもらうことから始まる。目を閉じ、自分の内側に耳をすまし、自他の時間感覚や呼吸スパンの「違い」を認識し共有する。もともと個の身体や心は「それぞれの時間」に生きている。のんびりした人の1分間は長めだし、せっかちな人の1分間は40秒くらいだったりする。その人の「1分間」を知ることは、同時に自分が生きている時間を知ることでもある。

 ここには2つの尺度がある。偶然に場を共にした人たちの中で「自分の1分間」が長いのか短いのかという相対的な視点。もうひとつは、提示された砂時計が示す’正解’を基準とした絶対的な視点だ。しかしここで私は「ある仕掛け」を施し、「正しい時間」に揺さぶりをかける。いつもの時間を疑い、時間の伸縮や曖昧さに気づくことは、時間と密接な関係にある「音楽」とは何か、世界とは何かを考えるきっかけともなる。

 私たちの心臓は1分間で約60回から70回程度の脈を打つ。1秒は心臓の速さだ。時間が脈拍を基準に生まれたことは数字からも明らかだし、時計が発明される以前は脈拍で時間を測ることもあっただろう。音楽の速度記号(メトロノーム)は1分間(60秒)にその音符が何回拍を打つかを示す。基準となるAndanteは「歩くような速さで ♩=63~76」と記される。つまりその人の歩く速さは、その人の心臓の速さなのだ。「時間」という概念は、もともとが個体差のある「脈」を基準にしたとても曖昧なものだった。それを絶対視している現代人の感覚は考えてみれば不思議だ。
 脈拍60回を一区切り(1分)にした理由は天体のリズムと関係するのだろう。体内で刻まれるリズムを、太陽や月や星の運行(暦)と結びつけた最初の人の存在は、想像するだけでもワクワクする。「時間」とは内外のリズムの発見と発明から生まれたのだろう。一日は24時間、1440分、心臓は約86400回のビートを刻む。月の満ち欠けで1ヶ月、海の満ち引き、波のリズムは呼吸と連動し、花は12カ月(1年)が経つと再び咲き、人はひとつ年を取る。体内リズムは天体、すなわち「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」とつながっている。逆に言えば、すべての生きものの内側には「宇宙のリズム」が存在する。
 その感覚は人を孤独から救う。この小さな自分が、何かとてつもなく大きな「音のない音楽」に包まれ、共鳴・共振しているような感覚になる。耳をすまし/ひらき、深く深呼吸をすることそのものが「音楽」なのだと気づく。もともと「ムジカ・ムンダーナ」の概念は、現代人が考える歌や演奏といった「音を出す音楽」とは違う「調和 ハルモニア」の哲学だ。静寂の中で暮らした古の人は、星空を見上げながら沈黙の音をきく耳をもっていたに違いない。
 いわゆる現代の
「音を出す音楽」も、本来は体内や宇宙のリズムと密接な関係にあったはずだろう。それが20世紀のわずか100年間のテクノロジーの進化によって、宇宙と体内リズムと音楽が切り離されていく。「音楽」はヘッドフォン(耳)だけで聴くもの、世界中いつでもどこでも均質に再生される時間となっていった。世界は統一され均質化され、時間もグローバル化される。ゆったりとした時間が流れる文化圏は消え、本当は誰もが違う「脈拍=秒」単位で、自己と他者が強制的かつ機械的に同期されていく。それは生きものとしては非常に不自然で特殊な進化(変態)だと思う。その「息苦しい時間」の一端を機械的で揺らがないリズムを刻む、余白のない音楽が作り出していることは否定できない。「生まれてから死ぬまで」を淡々と刻む心臓には寿命がある。西洋文化では「沈黙」が否定的な意味に受け取られてきたのは、「脈が止まる=沈黙」が「死」を連想させるからだ。永遠に止まらない「不老不死」のリズムは「沈黙=死」を怖れるようにかき消していく。

 カナダの作曲家M.シェーファーがサウンドスケープ論を提唱した『世界の調律』(平凡社)の最終章で提示したのが、まさに「沈黙」だった。この思想が彼が影響を受けたJ.ケージの著書『サイレンス』や有名な『4’33』の系譜にあることは明らかだ。さらにその奥には禅やヨガに代表される東洋的な「瞑想」も存在する。その証にシェーファーはヨガをいち早く学校教育に取り入れ、「全身を耳にして」内と外のサウンドスケープを「きく」ことを提唱した。しかし西洋文化圏での「沈黙」は前述の通り「死」を連想する否定的な要素が強く、今も彼の提唱がすんなり受け入れられたとは言い難い。だからこそ「(沈黙は)西洋芸術の最も可能性を秘めた特質となった」とシェーファーは語る。画像をリンクしたサイモン&ガーファンクルの『Sound of Silence』の詞も、実はとても哲学的で暗い印象がある。「沈黙は癌のようにひろがる」とまで歌っている。しかし沈黙が義務づけられたフランスの修道院生活を追ったドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』がヒットし、3時間以上にわたる全編が思いのほか豊かなサウンドスケープに包まれていたことは記憶に新しい。「内なる声」で神と対話する生活から生まれる音風景は、そこに生命の活動がある限り沈黙することはない。矛盾するようだが「Silence」の音は豊かに響くのである。

 シェーファーが40年前に提唱した「積極的な沈黙の回復」も、今だから理解できることは多い。騒々しい外側の音に包まれているうちに、内側の音(生命)の存在すら忘れてしまいそうである。何より耳には絶えずイヤホンから音楽が注ぎ込まれている。ケージが無響室で気づいた内側の音は、自分が生きている証。それは耳ではなく全身できく生命の音だった。音の溢れた外の世界に「沈黙」を取り戻すことは不可能かもしれないが、両手で耳をふさいで自分の脈拍に耳をすますこと、内側に感じることはできる。ほんの「1分間」でいい。約60回=60秒の脈拍が確かに「宇宙の音楽」とつながっていることを今こそ意識したい。2017.8.11 ササマユウコ)

※画像は1964年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。この年はレイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』が、オノ・ヨーコが後のIMAGINEへとつながる自費版の『グレープフルーツ』が出版された年であり、筆者が生まれた年でもある。


音の記憶④『蓮の花のひらく音』

 今年も美しい蓮の季節が巡ってきた。そして今日2017年7月11日は東日本大震災から6年4か月め、さらにもうひとつ大事なことは、戦前の治安維持法(大正14年)にあたる共謀罪が施行される日ということ。これは今から94年前(大正12年)の関東大震災から、昭和戦前の軍国主義へと突入していく時代の空気ととてもよく似ている。もちろん当時の芸術家や生活人も、法が施行された時はおそらくまだ他人事だったと思う。それよりも自分の表現や夕飯のおかずに頭を悩ませるほうが先だったことだろう。ただしその後の歴史で何が起こったのか。「戦争反対」とつぶやくだけで密告され、逮捕され、拷問のはてに殺される時代がやってきた。そのことは今一度知らなければならない。それは表現の自由、内心の自由、自分らしく生きることを諦めないためだ。
 2011年の夏、『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(M.シェーファー、今田匡彦著 春秋社)の課題「花のひらく音をきく」に惹かれ、戦前の朝日新聞紙上で繰り広げられた『蓮の音論争』について調べていた。永田町にある国会図書館には、窓の外から国会前の原発反対デモのすさまじいシュプレヒコールが響き渡っていた。
 手にしていた戦前の新聞記事は、ちょうど「蓮の音はしない」と断定された昭和11年のものだった。この年は歴史を振り返った時にターニングポイントとなる。2月にクーデーター未遂事件を起こし処刑された、多くの地方出身・青年将校たちの名前が列挙され(226事件)、ガタガタと音を立てるように軍国主義に突入していく国の姿があった。2011年の永田町に渦巻く怒号が戦前の戒厳令と重なって、時間を遡っているような不思議な感覚になった。驚くのは、この昭和11年までは植物学者も含め当たり前に「ある」と思われていた、または「きいた」人がいた「蓮の音」が、「科学」という言葉を前に見事に消えてしまったことだった。風流が軍国時代にそぐわないと忌み嫌われ始める一方、「国民歌謡」の放送が始まり、東京音楽学校には邦楽科が設立される。プロ野球は当たり前に開催されていたし、日劇もあった。そして1940年に幻となった「東京オリンピック」の開催地が東京に決まり、今の国会議事堂が出来たのもこの年だ。秋田では豪雨でダムが決壊し400名近い人が犠牲となっている。安倍定事件も起きている。この年にひっそりと「蓮の音」が消えたことは、おそらく誰も気づいていない。その後の戦時中、上野不忍池は食糧難から田んぼに埋め立てられ、次に蓮の花を咲かせるのは昭和40年代に入ってからだ。しかしこの国の人たちの耳に「蓮の音」が戻ることはなかった。
 M.シェーファー/今田がリトル・サウンド・エデュケーションの中で「花(蓮)のひらく音をきく」と提示したのは、そこに「芸術とは何か」の真髄があったからに他ならない。たとえば自分以外の誰もが「科学」を掲げて「音はしない」と言っても、「ある」と思えばあるのである。それが「内心の自由」だ。しかし「カミカゼ」を信じて戦争に突入したことも、実はこの発想と大差ない。だからこそ戦後、大賀博士は執拗に「蓮の音はしない」とあちこちで記している。それは「迷信を信じやすい」この国が起こした戦争の過ちを反省した言葉なのだ。
 私が毎年この記事を掲載するのは、特に若い皆さんにひとりでも史実を知ってもらいたいこともあるし、自分のためでもある。人は日々の暮らしの中であきれるほど多くのことを忘れてしまう。しかも世界はひとつではないのである。今日も九州地方は豪雨で大変な被害に遭われている。地震も起きた。心を痛めながらも夏休みの計画に心を躍らせたり、糠漬けのつかり具合に一喜一憂もする。そうやって、ひとりひとりの暮らしの中でいつの間にか悲惨な時代がやってくるのだろう。
 2011年の夏、国会図書館の中できいた永田町に渦巻いていた怒号。決して忘れてはならない音の記憶である。同時に「蓮の音」に芸術の希望を見出し、弘前の今田研究室に向かった晩秋のことも一生忘れないだろう。
 ●昨年の関連記事はこちらから→ (ササマユウコ記 2017年7月11日)


音の記憶③「ポリリズム」

 まだ豆粒のように小さな胎児だった頃から、私たちの心臓はその生命が終わるまでずっとリズムを刻んでいる。忘れがちだが、この世で誰ひとり同じ心臓を持たないのだから、体内リズムも人それぞれ違う。もしかしたら地球のどこかで、自分の心臓と同日同時刻から一秒違わず同じリズムを刻んでいる心臓が奇跡のようにあるのかもしれない。しかしそのリズムに出会うことは火星に生物を見つけるよりも困難だ。呼吸に寄り添う波のリズムも、波打ち際に立っていると大波小波が押し寄せては引いていくポリリズムだと気づく。

 そのポリリズムの世界が強引にひとつのパルスに押し込められ続け、いよいよ歪が出始めたのが現代だ。インターネットで時差の概念が消え、EUでシェスタが消え、東京では2分の到着の遅れに車掌が謝り続け、決して狂わないデジタル時計が暮らしを規範する。時間を描く線が消え、刻む点だけになる。砂時計のように曖昧な時間が消えていく。10年前に流行したPerfumeの「ポリリズム」は、曲中のリズムの変則性や、文字通り複数のリズムが絡み合う独特のグルーヴ感の中に、喪失されるポリリズムの世界を無意識に渇望したのかもしれない(テクノと生声の間(あわい)にある歌声の魅力もあったとは思うが)。
 例えば自分を振り返った時、左手は8分音符で4拍子、右手は4分で3連符のような西洋音楽のポリリズムに出会ったのは、ピアノ教育を通した小学生の中頃だったと思う。先に楽譜(視覚)があったので、それを見ながら手の左と右で同じ泊数の違うリズムを何度も何度も繰り返し、体内にポリリズムを染み込ませていった。考えてみれば身体を左右に分け、「ひとりで」ポリリズムをつくるピアニストとは何とも奇妙で孤独な生命体ではないだろうか。
 そのせいとは言えないが、私は例えば駅にある規則正しい階段を降りることがどうにも苦手である。同じ幅、同じ高さ、ひたすら続くその単調な規則性に途中から身体の何かが耐えられなくなって、リズムを変えたくなる。反対に古い神社仏閣にあるような手仕事の変則的な階段や、森の中で樹の根の有機的で不規則なリズムの段差はまったく苦にならない。ラッシュ時に駅の階段から転げ落ちる人を何度か目撃してしまったトラウマだろうか。その脇を軍隊行進のように通り過ぎていく冷たい足音の記憶もある。考えてみれば階段だけではない。ラジオ体操やカラオケ、揺らがない大きなリズムに合わせて「全員で」歌ったり身体を動かすのが心身ともに苦手である。「怖い」と紙一重だと思う。

 人生の中でいちばん印象に残っているポリリズムと言えば、妊娠8か月の頃に病院で聴かされた「胎児(娘)の心音」である。ベッドの枕元にL/Rの小さなスピーカーが付いていて、お腹にマイクを当てると予想以上に早い「トコトコトコトコ」といった可愛らしい小さな心音と、それに比べて低くゆったりとした自分の心音がポリリズムとなって聞こえてきた。それは「音楽」だった。自分の体内でふたつの心臓がポリリズムを奏でている。その状況は非常に面白かった。だから娘が生まれてからも時折、おもちゃの聴診器で心音を聴いてみた。あの健気な小さなリズムを一度でも耳にしたら、親は本能的に「この小さなリズムを守らねば」と思う。最近はマタニティマークをめぐる信じがたいニュースも話題になったが、あのマークは妊婦さんに特権を与えるものではなく、お腹の中で刻まれている小さなリズムを守るためのマークなのだ。「見えない」「きこえない」ものに想像力を働かせることは、この世界がポリリズムであることに気づくことと等しい。

 かつてアルバイトをしていた劇場で、イスラエルのダンスカンパニーのワークショップを見学させてもらったことがある。20年ほど前だろうか。まだ国内はコンテンポラリーダンスの黎明期で、生活の所作の中にある身体リズムをダンスに取り入れる動きが出始めた頃だった。その中で印象的なシーンがある。講師のダンサーが8拍子の音楽を流して、「これに合わせて7拍子で踊って。こちらのあなたは5拍子で」などと指示をだし、身体でポリリズムの風景をつくろうとすると日本人のダンサーはたいがい困惑してしまう。ちょうど音楽の世界でもシルクロードを遡るようにインドや中近東の音楽が身近になり始めた頃だ。インド古典のおおらかな二拍子の曲が、実は三桁の分母を持つ変拍子と複雑なポリリズムを内包しているものがあると知って驚いたこともある。何より、複雑に編み込まれたポリリズムがシンプルでスケール感のある’うねり’を生み出すことがとても興味深い。これは頭で考え、視覚で習得するリズムではない。身体に染み込ませるリズムである。
 今ではインターネットを通じて世界中のリズムを聴くことが可能だし、在日外国人二世や留学生が紹介する異国のリズムに触れる機会も当時と比べて格段に増えた。『LISTEN』のような聾者の音楽にも出会える。「日本語は4拍子」と捉える世界もあるが(確かに和歌の57577を読み上げるような「様式」の中には4拍子があるが)、例えば津軽弁や江戸弁などの方言に4拍子を感じたことはない。もっと個人の呼吸スパン、その人固有の体内リズムを感じる。反対に学校で習う音楽のほとんどが4拍子であることも興味深い。
 パソコンソフトや楽譜を使って、ポリリズムを作ることはさほど難しいことではない。リズムを数学的に捉え、聴覚よりも視覚化し、パターン化するのである。それは例えば森の中を歩いて葉や花のかたちに秩序を見出すような世界の捉え方である。むしろ本当に難しいのは、自分の「暮らす身体」を通してリズムを奏で、他者のリズムと共存する「生のポリリズム」である。リズムの中にも「相性」があって、どうにも心地良いグルーヴ感が生まれにくい組み合わせはある。しかし数学と同じで、公倍数として「一致」する瞬間は必ず巡ってくる。その瞬間を信じて、自分のリズムを頑なにキープする(守る)だけではなく、他者のリズムを受け入れ、揺らぐ(ずれる)ことも時には必要だ。最終的に大きくてシンプルな’うねり’が立ち現れるまで「繰り返す」ことが大事なのである。他者のリズムを「違和感」ではなく「差異」として受けとめられるような身体を手に入れたい。世界が単調なパルスに陥らないように常に耳を研ぎ澄ませていないといけない。多様性(ズレ)のあるポリリズムは、不揃いだが身体リズムと呼応する階段のように、有機的で心地よい余白のある世界を生む。
 映像は、この国の先住民族であるアイヌの民謡である。4人の独特な声が響き合い、時にポリリズムを刻みながら心地の良い揺らぎを生みだしていく。複雑なポリリズムがシンプルなうねりを生むのと同時に、ひとりひとりのシンプルなリズム、円環となる時間の組み合わせが複雑なポリリズムを生む。胎児の頃の耳の記憶が刺激されるような、ここ数年よく聴いている一曲。(2017.6.11 ササマユウコ)


音の記憶②「オルゴール」

 これまで特別に考えたことはなかったが、実は「オルゴール」が人生の原点にあると最近意識するようになった。

 パリのモンマルトルにあるような大きな手回しオルガンや古い自動ピアノ、スイスのリュージュ社のシンギング・バード等にも得も言われぬ魅力を感じるが、個人的にはアナログのネジ巻式か、機械に直接小さなハンドルを付けただけの手回し式、どちらにしても内外ともにシンプルで手の中に納まる手動のオルゴールが好きだ。

 多くの人がそうであるように、オルゴールとの最初の出会いは幼少期だった。もしかしたら赤ん坊の頃にも玩具等で「音」には出会っていたかもしれない。しかし’音楽装置’としての存在を認識したのはピアノの出会いと同じ、3歳の頃だった。それは父の転勤で幼少期を過ごした函館の家にあったもので、幾何学模様が彫られた黒い小さな宝石箱だった。右側面に幼い子どもの手には少し堅めの金属製の小さなネジが付いていた。そのネジを回すと、「ギギギギ、ギギギギ」と少し抵抗感のある音がする。もうこれ以上は巻けないというところで手を離すと、どこかもの哀しいメロディが流れてくる。それはロシア民謡の『黒い瞳』だった。当時は気づくはずもないが、赤レンガのペチカ(ロシア式暖房)のある和洋折衷の家にはロシア民謡がよく似合う。ここで半年間は雪に埋もれ、時おり黒い箱を手に抱えてはネジを「ギギギギギ」と回す。函館は今はあまり雪が降らないと聞くが、半世紀前は幼い子どもの胸の高さほどの雪が本当によく降った。ちょうど妹が生まれた頃で、長女は放っておかれることが増えたせいか、オルゴールのネジを回すのは暇つぶしと孤独を癒す時間でもあったと思う。

 指先に軽い痛みを感じるほど堅いネジだった。まだ指の力が無かっただけかもしれない。そうまでして聞きたかったのはロシア民謡そのものではなく、箱の内側からきこえる「ギギギギギ」の音だったと思う。あとは「ネジを巻く」というどこか非日常的な行為も面白かった。流れる音楽とともに回転するネジは、段々とゆっくりになり眠りに落ちるように曲の途中でも止まってしまう、音楽が始まる場所も終わる場所も毎回違う、その有機的な感じにも惹かれていた。最後の一音の櫛歯が「ピン」と弾かれて終わるのか、その手前で終わるのかもワクワクした。曲もフルコーラスではなく最初のワンフレーズを何度も繰り返したので、まるでミニマル・ミュージックのようだった(もちろん知らなかったが)。それに加えて『黒い瞳』の半音階で始まる少し大人びた旋律が、当時流行していた『黒猫のタンゴ』にも似た異国情緒があって好みだった。ここは記憶がおぼろげなのだが、音の鳴る「仕組み」も見えるタイプだったと思う(もしくは箱の中のフェルトを外すと見えたのかもしれない)。どちらにしてもオルゴールは、聴覚、触覚、視覚を刺激する魅力的な「音楽装置」であることを再認識する。

 写真のオルゴールは10年ほど前に手に入れたもので、普段は仕事机の上にある。音には直接関係ないが、占いの水晶のようにずっしりと重たい硝子玉が載っている(最初からボンドが剥がれていて、本当にただ載っている)。硝子の中にはそれぞれ回転木馬と観覧車が刻まれている。裏底にあるダイヤル式のネジを回すと音楽が始まって硝子玉も回り始める。ちなみにネジは軽めであまり好みではない。予想外だったのは台座の中に小さなLEDライトが仕込まれていて、硝子玉が回りながら虹色に変化することだ。玉を手に取ると台座の中の虹の仕掛けは丸見えである。実はどこかの閉店セールで「3個まとめて1000円」の放出品を、放っておけずに引き取ったものである。ひとつは親戚の子にあげて、もうひとつもあげる予定の人がいたが「いらない」と断られた気がする。すっかり家に馴染んだ今は、欲しいと言われてもこちらが断るだろうけれど。
 再生される音楽は、観覧車がオルゴールの定番『It's A Small World』、回転木馬が『キヤルーゼル・ワルツ(原文ママ)』という、旋律は聞き覚えがあるが出どころ不明の曲だ。おそらく映画音楽だろうとは思っている。ちなみに硝子玉が重すぎて台座の回転に支障をきたし音がひび割れている。今ではLEDも切れそうで、ほんのり「赤玉」になるくらいだ。思い返せば「オルゴールとして」完璧に作動した期間は虹の出現のように儚かった。もしかしたら展示品だったのかもしれない。重厚な外側のつくりに反して、内側の機械は安物の音がする。
 しかし硝子玉に時おり日が当たると「希望」のように美しい光を放つ。その音楽的な佇まいが気に入っている。何より2011年の大震災でも無事だった我が家の貴重な硝子品のひとつだから、その強運も含め大切にしたいと思う。きっといつかは音も鳴らなくなるだろう。音を出さずに静かに回る硝子玉は、「記憶の音」を再生する装置に変身するだろう。回転木馬も観覧車も円環運動だ。その回転を見ながら私が思い出すのはロシア民謡なのかもしれない。そういえば、あの宝石箱のオルゴールはどこへ行ってしまったのだろう?引っ越しを繰り返す中で、いつの間にか消えてしまった。(2017.5.11 ササマユウコ)


音の記憶①ダムタイプ『OR』の音(1997@青山スパイラルホール)

 あの時は、生まれて初めて「音に殺される」と思った。

 ステージから目を逸らし、耳を塞いで抵抗したが、暗がりの床に座って全身で浴びる破壊的な重低音に、遂には生命が悲鳴を上げた。会場入り口に「途中退場可」の旨の貼り紙があったことは確認していたので、中央に座ってしまったことも、記録の撮影が入っていたことも構わず、私は立ち上がってその音から逃げ出していた。音に背を向けて、全力で逃げた。
 本来は当たり前だと思うのだが、ここでのアーティストと観客は’フェアな関係’だった。彼等の「表現の自由」と、そこから「逃げる自由」が、互いに保障されていたのは救いだった。しかし考えてみると、例えば音楽ホールでクラシックの演奏途中に、その音から「逃げる」ことが許されている場は少ない。演奏者への敬意は当然払うべきだが、これは何とも「アンフェアな関係」ではないだろうか。その一方で、自分が音を出す側にまわると、途端にその意識が薄らいでしまう。それどころか当たり前のように観客の身体と時間を拘束し、時には静寂を要求してしまうのはなぜだろう。
 すでに世界的な評価を得ていたダムタイプのコンサート『OR』の音だった。1995年に中心メンバーの一人だった古橋悌二をエイズで失った後、彼等はカンパニーとしての転機を迎えていた。私が逃げ出したのは、ステージ上の大きなスピーカーの電源を入れたまま、そのプラグを抜き差しするシーンだった(スタジオ・ミュージシャンなら、その音が’ご法度’であると知っている)。音質や音量の嗜好の問題、光の作用もあったとは思うが、それ以上にその音を淡々と出し続けるパフォーマーの無機質な存在感、その音の前に自分が100%受け身の状態に置かれるという「関係性」に耐えられなくなった。

 それは大げさではなく「音で殴られる」ような感覚だった。明らかに暴力だったと思う。ところがもっとショックだったのは、体育座りで微動だにせず、その暴力を受け続けている人たちがほとんどだったということだ。あの『S/N』の「ダムタイプ」の作品に背を向けることは容易ではない。この会場を「逃げ出す」ということは世界的なアートを理解しない自分を認めることになる。そこへの葛藤があったかもしれないし、無かったかもしれない。

 このコンサートに誘ってくれたダンサーの友人も、ほどなく会場を後にした。私を気遣ってではなく、彼女自身の身体が限界を越えたからだと言った。作品を全て観ていないので、私に内容を批評する資格はない。唯一言えることは、「暴力」とは何かを、あの音を通して身を持って体験できた貴重なコンサートだったということだ。
 音を「きく」のは耳だけではなく、全身であり、この生命である。アーティストと観客の、その間にある「関係性」の’在りよう’こそが音の本質を決める。だから’心地よい’と感じる重低音もあることは誤解のないように記しておきたい。
 物理的エネルギーとしての音の「力」。それを手にした側が一方的に「強者」となるような場の関係性には、常に危うさが潜んでいる。もちろんその音が、音楽となって誰かの生命を癒し救うこともある。その一方でシェーファーがサウンドスケープ論で示唆したように、音は自他の耳だけでなく、時には心も傷つけることは肝に銘じていたい。音の扱い方を今いちど問うことから、21世紀に相応しい’新しいコンサートのかたち’が生まれる可能性もある。特に社会にひらいた参加型コンサートやコミュニティ・ミュージックを志向するアーティストは、発展が著しい「音楽療法」の分野から学ぶべきこともあると思う。音のエネルギーを扱う際は、自身の表現欲求を満たすだけでなく、常に「想定外」を想像する能力が要求される時代となった。自戒を込めて、肝に銘じたい。

追記:「OR」から20年の月日が経つ。このコンサートには参加していないが、同じくダムタイプの主要メンバーだった美術家・小山田徹氏は、現在小さな焚き火を囲む「ちび火」プロジェクトやオーガニックカフェを展開していることが興味深い。「大きな火は、全体主義的な高揚感があって危険だから、小さな火を囲むのがいい」という彼の考えも記しておきたい。「芸術の力」を身を持って知る人の、内側から出た言葉である。 (2017.4.11 ササマユウコ)

●当時の「OR」の批評で、最も腑に落ちたのが熊倉敬聡氏の文章である。ちなみに、記録映像には問題のシーンは収録されていない。


音の記憶「聾/聴の境界をきく」

〇動画はこちらのリンクからご覧いただけます

以下はFB専用ページからの転載です(www.facebook.com/deaf.coda.hearing)

 

 この記録は音を消してみた時に違う風景がたち現れます。まるで音が聞こえているように動く雫境さんですが、実際には「音」はふたりをつなぐメディア(媒体)ではありませんでした。しかしカメラ横にあったドラムセットはかなりの音量で振動していたので、ピアノの音が部屋の空気を揺らし、雫境さんの身体に「届いている」という実感はありました。その空気の「揺れ」を感じながら動いていたのかはわかりませんが、演奏する身体(指)と身体の動きが同期している場面が少なからずあることは非常に興味深いです。

 演奏中に私が何度もふり返っているのは、通常と違って「視覚」に頼っているからです。「伴奏」のように身体の動きに合わせて弾いているのではなく、雫境さんの放つ「雰囲気」や「気」、言葉や意識を越えた「何か」を感じ取ろうとしています。音楽家同士の即興セッションでやるような「アイコンタクト」は特に取っていません。そして最も大切なのは、ここでは「きこえる|きこえない」ということは全く問題では無かったということです。聾・聴がお互いの世界から一歩踏み出し、「間 あわい」となる「境界」の中でセッションをしていたように思います。

 今回のプロジェクトのテーマもまさにここにあります。聾|聴、音のある|音のない、それぞれが生きる世界に「踏み込む」のではなく、お互いの世界を尊重し「知る」ことを大事にしながら、さらにそこから一歩踏み出した「境界」に何が生まれるのかを探ります。私は音楽家ですが、残念ながら私の音は彼等の世界には届きません。しかしこの動画をみていると「演奏する身体」も音楽なのだとわかってきます。例えば「振動」や「画像」を自分の音楽の代替えに伝えたとしても、それは本質からは遠く、どこか「自己満足」に陥る危険性があります。同時に、月の満ち欠け、潮の満ち引き、体内のリズム、四季の巡りなど、聾/聴を越えた人間のリズム、「共通の音風景」が存在することは確かだと思っています。

第1回ミーティングとなったこの日は、ふたりの共通の友人であり、劇作家・舞台手話通訳の米内山陽子(CODA)の存在も大きかったです。矛盾しているようですが、非言語対話を通して「コトバ」の役割も見えてきます。「対話」の概念にはもともと「コトバ」が含まれている訳ですから、そこにズレが生じると「音のない言葉(ボディ・ランゲージ、パラ・ランゲージ、サイン・ランゲージ(手話)」も身体表現や音楽も、結局うまく伝わりません。「通訳者」の持つ「コトバ」のセンスや「間」が、いかに大切かもわかります。昨年からの個人的なテーマである「コトバとは何か」という問いにもあらためて立ち返る時間でした。幸い私はまだ「聾の世界」の言葉(手話)をほとんど知りません。非言語対話⇔言語対話というプロセスを辿る中で、自分が何を感じ発見するのかも楽しみにしています。

 この日、雫境さんが教えてくれた聾者の音楽映画『LISTEN』牧原監督の「音のない世界の’奥に’聾の世界がある」という言葉もとても印象的でした。その世界の奥に入ることは出来ませんが「知る」ことは可能だと思っています。(聴・ササマユウコ)

協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく〜言語・非言語対話の可能性」
メンバー:雫境|聾・Moement・身体 ササマユウコ|聴・Soundscape・音 米内山陽子|CODA・Signlanguage・言葉

助成:アートミーツケア学会青空委員会

企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネク