音の記憶「聾/聴の境界をきく」

〇動画はこちらのリンクからご覧いただけます

以下はFB専用ページからの転載です(www.facebook.com/deaf.coda.hearing)

 

 この記録は音を消してみた時に違う風景がたち現れます。まるで音が聞こえているように動く雫境さんですが、実際には「音」はふたりをつなぐメディア(媒体)ではありませんでした。しかしカメラ横にあったドラムセットはかなりの音量で振動していたので、ピアノの音が部屋の空気を揺らし、雫境さんの身体に「届いている」という実感はありました。その空気の「揺れ」を感じながら動いていたのかはわかりませんが、演奏する身体(指)と身体の動きが同期している場面が少なからずあることは非常に興味深いです。

 演奏中に私が何度もふり返っているのは、通常と違って「視覚」に頼っているからです。「伴奏」のように身体の動きに合わせて弾いているのではなく、雫境さんの放つ「雰囲気」や「気」、言葉や意識を越えた「何か」を感じ取ろうとしています。音楽家同士の即興セッションでやるような「アイコンタクト」は特に取っていません。そして最も大切なのは、ここでは「きこえる|きこえない」ということは全く問題では無かったということです。聾・聴がお互いの世界から一歩踏み出し、「間 あわい」となる「境界」の中でセッションをしていたように思います。

 今回のプロジェクトのテーマもまさにここにあります。聾|聴、音のある|音のない、それぞれが生きる世界に「踏み込む」のではなく、お互いの世界を尊重し「知る」ことを大事にしながら、さらにそこから一歩踏み出した「境界」に何が生まれるのかを探ります。私は音楽家ですが、残念ながら私の音は彼等の世界には届きません。しかしこの動画をみていると「演奏する身体」も音楽なのだとわかってきます。例えば「振動」や「画像」を自分の音楽の代替えに伝えたとしても、それは本質からは遠く、どこか「自己満足」に陥る危険性があります。同時に、月の満ち欠け、潮の満ち引き、体内のリズム、四季の巡りなど、聾/聴を越えた人間のリズム、「共通の音風景」が存在することは確かだと思っています。

第1回ミーティングとなったこの日は、ふたりの共通の友人であり、劇作家・舞台手話通訳の米内山陽子(CODA)の存在も大きかったです。矛盾しているようですが、非言語対話を通して「コトバ」の役割も見えてきます。「対話」の概念にはもともと「コトバ」が含まれている訳ですから、そこにズレが生じると「音のない言葉(ボディ・ランゲージ、パラ・ランゲージ、サイン・ランゲージ(手話)」も身体表現や音楽も、結局うまく伝わりません。「通訳者」の持つ「コトバ」のセンスや「間」が、いかに大切かもわかります。昨年からの個人的なテーマである「コトバとは何か」という問いにもあらためて立ち返る時間でした。幸い私はまだ「聾の世界」の言葉(手話)をほとんど知りません。非言語対話⇔言語対話というプロセスを辿る中で、自分が何を感じ発見するのかも楽しみにしています。

 この日、雫境さんが教えてくれた聾者の音楽映画『LISTEN』牧原監督の「音のない世界の’奥に’聾の世界がある」という言葉もとても印象的でした。その世界の奥に入ることは出来ませんが「知る」ことは可能だと思っています。(聴・ササマユウコ)

協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく〜言語・非言語対話の可能性」
メンバー:雫境|聾・Moement・身体 ササマユウコ|聴・Soundscape・音 米内山陽子|CODA・Signlanguage・言葉

助成:アートミーツケア学会青空委員会

企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネク