音の記憶⑥『戦争の音』

 16年前の9月11日。私は二週間後に出産を控えた臨月の妊婦だった。その日の朝、まだ目が覚める前の頭の中で、世界が「騒然としている音」を確かに聴いていた。何語なのかもわからない。おびただしい数の声、その叫びに近いやりとりが、尋常ではない勢いで世界を飛び交っている。その音が「うるさくて」目が覚めたのだ。しかし部屋の中はしんとしていた。
 8か月目までは普通に活動をしていたが、さすがに臨月に入るといわゆる「妊婦体型」となって容易には起き上がれない。ゆっくりと横向きから、ヨガと同じように片側に両手をつき、吐く呼吸に合わせてゆっくりと体を起こしていく。そこから一呼吸おいて立ち上がり、くり抜かれた壁の中に置いた小さな16インチ・テレビの主電源を入れた。テレビを持たない今の生活の前は、朝起きたら習慣的にテレビのスイッチを入れていたように思う。私はテレビの前に立ったまま、ぼんやりと立ち現れる小さな画面を見つめていた。
 最初に目に映った映像は、まさにWTCに飛行機が激突する瞬間だった。続いて、爆破による解体作業のようにビルが’見事に’崩れ落ちていく映像。そして砂煙の中を全力で逃げる街中の人たち、叫び声、現地アナウンサーの低くて悲痛な声・・だった。その時、自身も何か声を上げたかもしれない。現実とはにわかに信じられなかったが、さっきまで頭の中で聞いていた「音」の正体はこれだったのかと確信した。続けて、ペンタゴンにも飛行機が墜落したと伝えられた。ある朝突然に、テロという名の戦争は始まってしまった。あの日はいったいどんな気持ちで一日を過ごしただろう。その後に続く今日までの16年間の情報量があまりに多く、「大変な時代に子どもを産むことになった」と覚悟したこと以外、実はあまりよく覚えていない。
 高台にある築40年のマンションの最上階角部屋は、眺望だけは高層マンションのようだった。近くの消防署の隊員さんが「火の見やぐら」と称した通り、目の前は公園だったし窓の外の風景をさえぎるものは何もなかった。ただ、数百メートル先に当時はまだ「防衛庁」の通信用の無線鉄塔があった。おそらく臨月の妊婦がキャッチしたのは、その鉄塔に世界中から送られてくる強力で膨大な通信電波だったのだろう。非科学的だと笑われても構わない。耳の中には確かに「9.11の音の記憶」があるのだから。

  崩れ落ちたWTCの106階にはJazzライブも聴けるレストラン「Windows on the World」があった(9.11後に一時ネット上に流れていた、ビルから真っ直ぐに落ちていく紳士の写真はここのシェフだったと言われている)。20代の頃、初めてN.Y.を訪れた時に、今はブルックリンで素敵な日本食レストランを営む友人夫婦に連れていってもらった。時はバブル時代。世界一の経済大国となった日本企業が、ロックフェラーセンターを始めマンハッタンを「買い漁っていた」時代だった。アップタウンの高級アパートには多くの日本人(作曲家や芸能人も)が部屋を持ち、WTCにも商社マンや銀行員が多く働いていて、第二の東京のようだった。自分とまったく違う世界に住む企業人たちは自信に溢れ、「敗戦国」のリベンジを経済力で果たした高揚感に包まれているように見えた。しかしそこから間もなくバブルは弾け、ロックフェラーもアメリカの手に戻った。私が「世界の頂上」に上ったのは後にも先にもその一回だけだったが、WTCがマンハッタンの重要な経済的シンボルだったことは確かだ。
 2001年9月11日から二週間後の予定日を少し過ぎて、私は母親になった(しかも出産事故で死にかけた)。現代医療に助けられ一命は取り留めたものの、どこか「余生」のような第二の人生の始まりだったと思う。同時に、全てが「初体験」の育児に翻弄する日々の中で、正直9.11どころの騒ぎではなくなっていく。「たとえ世界が終ろうとも、私は腕の中の小さな生命を死なせるわけにはいかない」という想いしか無かったように思う。毎日が’待ったなし’の「
リアル」であり、明らかに「内と外の世界の分断期」でもあった。

 そのうち湾岸戦争が始まった。映像も記憶しているし悲観もしたが、それはあくまでも「外」の世界の出来事だった。個人的な未来像は、すくすくと育つ小さな生命とともにすこぶる楽観的で明るかった気がする。CD制作が続いたのでPC作業も多かったが、16年前は今のように一瞬でネットにつながる光回線ではなく(当然スマホはなく)、電話とFAX、PCも気長なダイヤル回線で対応していた。アドレスを入力すると電話のダイヤルが回るような音がして、続いて呼び出し音「ピ~、ガ~」が鳴り、どんなに急ぎの懸案であっても’のんびりと’回線がつながるのを待つしかなかったのである。当然、混んだ時間はつながらない。大きな画像ファイルは送れない。音声動画のやりとりは専門性が高すぎて論外であった。娘を抱っこしながら片手でメールの返信を打つ・・という状態も珍しくなかったが、夫が男女の双生児だったのでジェンダーレスな子育てが可能だったことは、まだ当時の世間の規範からは外れていたが、お互いのライフスタイルや性格には合っていたと思う。だから今でもあの「ピーガー音」を偶然耳にすると、都会のど真ん中で必死に子育てをしていた頃を懐かしく思い出す。間違いなく大変なことの方が多かったはずだが、不思議と幸福な記憶としてよみがえる。その傍らで防衛庁はいつの間にか防衛省となり、夜中に人知れずミサイルを運び入れる音が街中に静かに響くのを、子どもと添い寝しながらぼんやりと耳にするような時代になっていった。そして3.11が起き、私たち家族も時を同じくしてこの「火の見やぐら」を出ることとなった。

『世界の調律』(M.シェーファー 平凡社)の中にも「戦争の音」は’黙示録的な音’として登場する。戦闘機、ミサイル、爆撃、地雷、叫び声、、戦場のサウンドスケープがいかに人々の精神を消耗させるかは想像に難くない。最近よく「目」にする(東京では鳴らされたことがないので「耳」にはしていない)『アラート』という警報音もどこか黙示録的だ。人々の心に仮想敵国の存在と共に「恐怖心」を染み込ませ、非現実的な避難訓練を繰り返しながら「戦争の音」へと導く。まるでそれは「パブロフの犬」の実験そのものだ。とにかく少し冷静になって考えたい。犬のように反射してはならないはずだ。
 以下は、『世界の調律』(1986 平凡社ライブラリー)の一節である。今から40年以上前の、米ソ冷戦構造の時代(1976年)に出版された。ひとりの音楽家の「声」を世界はそう簡単には受け入れないが、時間を経た今読み返しても多くの発見や学びのある博物学的で学際的な「音の本」である。音と戦争は無関係ではないことを、音楽家こそ自覚しなければならないと思う。
さまざまな社会が知らず知らずのうちに、それら(黙示録的な音)
を無意識のうちにあこがれるようになることはありうるかもしれない。人間はこれまでもずっと、敵を恐ろしい音でやっつけようとしてきた。盾を響かせ太鼓を打ち鳴らした古代から、第二次世界大戦の広島と長崎の原子爆弾に至るまでの戦争の歴史を通じて、われわれは常に黙示録的な音を再現するための周到な試みを重ねてきたのである。」(第1章自然のサウンドスケープ「黙示録の音」より抜粋)。

 (2017.9.11 ササマユウコ)