音の記憶⑤「Sound of Silence~沈黙の音」

 8月は「1分間の黙祷」の季節である。6日の広島、9日の長崎、そして15日の終戦記念日。「黙祷」という「沈黙」を全国民が同じ時刻に共有する。もちろんこの「沈黙」が全てを包み込むわけではない。キッチンに流れる暮らしの音、街中では車やバスや電車の音、庭ではセミたちの賑やかな鳴き声が響き、仕事中の人もいるだろう。いつもの音風景の中に、それぞれの「1分間」、それぞれの祈りがある。身体の輪郭を残したまま内側に深く広がる「沈黙」を外側から見ることはできない。電車内でスマホをしている人も心の中では「黙祷」をしているのかもしれない。仕事の手を止め、あるいは立ち止まり、目を閉じて静かに手を合わせ、停止した身体の内側が「無」になった時にはじめて外側にも沈黙がたち現れる。どちらにしても「1分間の黙祷」は意外なほど長い。祈り続けることの重みを時間から実感する。
 自身のサウンド・エデュケーションのワークショップでは、まず参加者に「1分間」を体験してもらうことから始まる。目を閉じ、自分の内側に耳をすまし、自他の時間感覚や呼吸スパンの「違い」を認識し共有する。もともと個の身体や心は「それぞれの時間」に生きている。のんびりした人の1分間は長めだし、せっかちな人の1分間は40秒くらいだったりする。その人の「1分間」を知ることは、同時に自分が生きている時間を知ることでもある。

 ここには2つの尺度がある。偶然に場を共にした人たちの中で「自分の1分間」が長いのか短いのかという相対的な視点。もうひとつは、提示された砂時計が示す’正解’を基準とした絶対的な視点だ。しかしここで私は「ある仕掛け」を施し、「正しい時間」に揺さぶりをかける。いつもの時間を疑い、時間の伸縮や曖昧さに気づくことは、時間と密接な関係にある「音楽」とは何か、世界とは何かを考えるきっかけともなる。

 私たちの心臓は1分間で約60回から70回程度の脈を打つ。1秒は心臓の速さだ。時間が脈拍を基準に生まれたことは数字からも明らかだし、時計が発明される以前は脈拍で時間を測ることもあっただろう。音楽の速度記号(メトロノーム)は1分間(60秒)にその音符が何回拍を打つかを示す。基準となるAndanteは「歩くような速さで ♩=63~76」と記される。つまりその人の歩く速さは、その人の心臓の速さなのだ。「時間」という概念は、もともとが個体差のある「脈」を基準にしたとても曖昧なものだった。それを絶対視している現代人の感覚は考えてみれば不思議だ。
 脈拍60回を一区切り(1分)にした理由は天体のリズムと関係するのだろう。体内で刻まれるリズムを、太陽や月や星の運行(暦)と結びつけた最初の人の存在は、想像するだけでもワクワクする。「時間」とは内外のリズムの発見と発明から生まれたのだろう。一日は24時間、1440分、心臓は約86400回のビートを刻む。月の満ち欠けで1ヶ月、海の満ち引き、波のリズムは呼吸と連動し、花は12カ月(1年)が経つと再び咲き、人はひとつ年を取る。体内リズムは天体、すなわち「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」とつながっている。逆に言えば、すべての生きものの内側には「宇宙のリズム」が存在する。
 その感覚は人を孤独から救う。この小さな自分が、何かとてつもなく大きな「音のない音楽」に包まれ、共鳴・共振しているような感覚になる。耳をすまし/ひらき、深く深呼吸をすることそのものが「音楽」なのだと気づく。もともと「ムジカ・ムンダーナ」の概念は、現代人が考える歌や演奏といった「音を出す音楽」とは違う「調和 ハルモニア」の哲学だ。静寂の中で暮らした古の人は、星空を見上げながら沈黙の音をきく耳をもっていたに違いない。
 いわゆる現代の
「音を出す音楽」も、本来は体内や宇宙のリズムと密接な関係にあったはずだろう。それが20世紀のわずか100年間のテクノロジーの進化によって、宇宙と体内リズムと音楽が切り離されていく。「音楽」はヘッドフォン(耳)だけで聴くもの、世界中いつでもどこでも均質に再生される時間となっていった。世界は統一され均質化され、時間もグローバル化される。ゆったりとした時間が流れる文化圏は消え、本当は誰もが違う「脈拍=秒」単位で、自己と他者が強制的かつ機械的に同期されていく。それは生きものとしては非常に不自然で特殊な進化(変態)だと思う。その「息苦しい時間」の一端を機械的で揺らがないリズムを刻む、余白のない音楽が作り出していることは否定できない。「生まれてから死ぬまで」を淡々と刻む心臓には寿命がある。西洋文化では「沈黙」が否定的な意味に受け取られてきたのは、「脈が止まる=沈黙」が「死」を連想させるからだ。永遠に止まらない「不老不死」のリズムは「沈黙=死」を怖れるようにかき消していく。

 カナダの作曲家M.シェーファーがサウンドスケープ論を提唱した『世界の調律』(平凡社)の最終章で提示したのが、まさに「沈黙」だった。この思想が彼が影響を受けたJ.ケージの著書『サイレンス』や有名な『4’33』の系譜にあることは明らかだ。さらにその奥には禅やヨガに代表される東洋的な「瞑想」も存在する。その証にシェーファーはヨガをいち早く学校教育に取り入れ、「全身を耳にして」内と外のサウンドスケープを「きく」ことを提唱した。しかし西洋文化圏での「沈黙」は前述の通り「死」を連想する否定的な要素が強く、今も彼の提唱がすんなり受け入れられたとは言い難い。だからこそ「(沈黙は)西洋芸術の最も可能性を秘めた特質となった」とシェーファーは語る。画像をリンクしたサイモン&ガーファンクルの『Sound of Silence』の詞も、実はとても哲学的で暗い印象がある。「沈黙は癌のようにひろがる」とまで歌っている。しかし沈黙が義務づけられたフランスの修道院生活を追ったドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』がヒットし、3時間以上にわたる全編が思いのほか豊かなサウンドスケープに包まれていたことは記憶に新しい。「内なる声」で神と対話する生活から生まれる音風景は、そこに生命の活動がある限り沈黙することはない。矛盾するようだが「Silence」の音は豊かに響くのである。

 シェーファーが40年前に提唱した「積極的な沈黙の回復」も、今だから理解できることは多い。騒々しい外側の音に包まれているうちに、内側の音(生命)の存在すら忘れてしまいそうである。何より耳には絶えずイヤホンから音楽が注ぎ込まれている。ケージが無響室で気づいた内側の音は、自分が生きている証。それは耳ではなく全身できく生命の音だった。音の溢れた外の世界に「沈黙」を取り戻すことは不可能かもしれないが、両手で耳をふさいで自分の脈拍に耳をすますこと、内側に感じることはできる。ほんの「1分間」でいい。約60回=60秒の脈拍が確かに「宇宙の音楽」とつながっていることを今こそ意識したい。2017.8.11 ササマユウコ)

※画像は1964年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」。この年はレイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』が、オノ・ヨーコが後のIMAGINEへとつながる自費版の『グレープフルーツ』が出版された年であり、筆者が生まれた年でもある。