音の記憶③「ポリリズム」

 まだ豆粒のように小さな胎児だった頃から、私たちの心臓はその生命が終わるまでずっとリズムを刻んでいる。忘れがちだが、この世で誰ひとり同じ心臓を持たないのだから、体内リズムも人それぞれ違う。もしかしたら地球のどこかで、自分の心臓と同日同時刻から一秒違わず同じリズムを刻んでいる心臓が奇跡のようにあるのかもしれない。しかしそのリズムに出会うことは火星に生物を見つけるよりも困難だ。呼吸に寄り添う波のリズムも、波打ち際に立っていると大波小波が押し寄せては引いていくポリリズムだと気づく。

 そのポリリズムの世界が強引にひとつのパルスに押し込められ続け、いよいよ歪が出始めたのが現代だ。インターネットで時差の概念が消え、EUでシェスタが消え、東京では2分の到着の遅れに車掌が謝り続け、決して狂わないデジタル時計が暮らしを規範する。時間を描く線が消え、刻む点だけになる。砂時計のように曖昧な時間が消えていく。10年前に流行したPerfumeの「ポリリズム」は、曲中のリズムの変則性や、文字通り複数のリズムが絡み合う独特のグルーヴ感の中に、喪失されるポリリズムの世界を無意識に渇望したのかもしれない(テクノと生声の間(あわい)にある歌声の魅力もあったとは思うが)。
 例えば自分を振り返った時、左手は8分音符で4拍子、右手は4分で3連符のような西洋音楽のポリリズムに出会ったのは、ピアノ教育を通した小学生の中頃だったと思う。先に楽譜(視覚)があったので、それを見ながら手の左と右で同じ泊数の違うリズムを何度も何度も繰り返し、体内にポリリズムを染み込ませていった。考えてみれば身体を左右に分け、「ひとりで」ポリリズムをつくるピアニストとは何とも奇妙で孤独な生命体ではないだろうか。
 そのせいとは言えないが、私は例えば駅にある規則正しい階段を降りることがどうにも苦手である。同じ幅、同じ高さ、ひたすら続くその単調な規則性に途中から身体の何かが耐えられなくなって、リズムを変えたくなる。反対に古い神社仏閣にあるような手仕事の変則的な階段や、森の中で樹の根の有機的で不規則なリズムの段差はまったく苦にならない。ラッシュ時に駅の階段から転げ落ちる人を何度か目撃してしまったトラウマだろうか。その脇を軍隊行進のように通り過ぎていく冷たい足音の記憶もある。考えてみれば階段だけではない。ラジオ体操やカラオケ、揺らがない大きなリズムに合わせて「全員で」歌ったり身体を動かすのが心身ともに苦手である。「怖い」と紙一重だと思う。

 人生の中でいちばん印象に残っているポリリズムと言えば、妊娠8か月の頃に病院で聴かされた「胎児(娘)の心音」である。ベッドの枕元にL/Rの小さなスピーカーが付いていて、お腹にマイクを当てると予想以上に早い「トコトコトコトコ」といった可愛らしい小さな心音と、それに比べて低くゆったりとした自分の心音がポリリズムとなって聞こえてきた。それは「音楽」だった。自分の体内でふたつの心臓がポリリズムを奏でている。その状況は非常に面白かった。だから娘が生まれてからも時折、おもちゃの聴診器で心音を聴いてみた。あの健気な小さなリズムを一度でも耳にしたら、親は本能的に「この小さなリズムを守らねば」と思う。最近はマタニティマークをめぐる信じがたいニュースも話題になったが、あのマークは妊婦さんに特権を与えるものではなく、お腹の中で刻まれている小さなリズムを守るためのマークなのだ。「見えない」「きこえない」ものに想像力を働かせることは、この世界がポリリズムであることに気づくことと等しい。

 かつてアルバイトをしていた劇場で、イスラエルのダンスカンパニーのワークショップを見学させてもらったことがある。20年ほど前だろうか。まだ国内はコンテンポラリーダンスの黎明期で、生活の所作の中にある身体リズムをダンスに取り入れる動きが出始めた頃だった。その中で印象的なシーンがある。講師のダンサーが8拍子の音楽を流して、「これに合わせて7拍子で踊って。こちらのあなたは5拍子で」などと指示をだし、身体でポリリズムの風景をつくろうとすると日本人のダンサーはたいがい困惑してしまう。ちょうど音楽の世界でもシルクロードを遡るようにインドや中近東の音楽が身近になり始めた頃だ。インド古典のおおらかな二拍子の曲が、実は三桁の分母を持つ変拍子と複雑なポリリズムを内包しているものがあると知って驚いたこともある。何より、複雑に編み込まれたポリリズムがシンプルでスケール感のある’うねり’を生み出すことがとても興味深い。これは頭で考え、視覚で習得するリズムではない。身体に染み込ませるリズムである。
 今ではインターネットを通じて世界中のリズムを聴くことが可能だし、在日外国人二世や留学生が紹介する異国のリズムに触れる機会も当時と比べて格段に増えた。『LISTEN』のような聾者の音楽にも出会える。「日本語は4拍子」と捉える世界もあるが(確かに和歌の57577を読み上げるような「様式」の中には4拍子があるが)、例えば津軽弁や江戸弁などの方言に4拍子を感じたことはない。もっと個人の呼吸スパン、その人固有の体内リズムを感じる。反対に学校で習う音楽のほとんどが4拍子であることも興味深い。
 パソコンソフトや楽譜を使って、ポリリズムを作ることはさほど難しいことではない。リズムを数学的に捉え、聴覚よりも視覚化し、パターン化するのである。それは例えば森の中を歩いて葉や花のかたちに秩序を見出すような世界の捉え方である。むしろ本当に難しいのは、自分の「暮らす身体」を通してリズムを奏で、他者のリズムと共存する「生のポリリズム」である。リズムの中にも「相性」があって、どうにも心地良いグルーヴ感が生まれにくい組み合わせはある。しかし数学と同じで、公倍数として「一致」する瞬間は必ず巡ってくる。その瞬間を信じて、自分のリズムを頑なにキープする(守る)だけではなく、他者のリズムを受け入れ、揺らぐ(ずれる)ことも時には必要だ。最終的に大きくてシンプルな’うねり’が立ち現れるまで「繰り返す」ことが大事なのである。他者のリズムを「違和感」ではなく「差異」として受けとめられるような身体を手に入れたい。世界が単調なパルスに陥らないように常に耳を研ぎ澄ませていないといけない。多様性(ズレ)のあるポリリズムは、不揃いだが身体リズムと呼応する階段のように、有機的で心地よい余白のある世界を生む。
 映像は、この国の先住民族であるアイヌの民謡である。4人の独特な声が響き合い、時にポリリズムを刻みながら心地の良い揺らぎを生みだしていく。複雑なポリリズムがシンプルなうねりを生むのと同時に、ひとりひとりのシンプルなリズム、円環となる時間の組み合わせが複雑なポリリズムを生む。胎児の頃の耳の記憶が刺激されるような、ここ数年よく聴いている一曲。(2017.6.11 ササマユウコ)